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日記 definitive

2026.10.12

2026.10.11(SUN)

●OutKast(US, Atlanta)『Stankonia』(2000)

●友だちの結婚式ですごく久しぶりの後輩たちの顔を見れた、帰りに普段使わない方の最寄りの駅の本屋に行ったら、まだ返品されてない先月の新潮がまだあったので買った。結構品揃えはいい本屋なのだがどんくさくて助かった。

というか新品で文芸誌を買うのは2013年の『文藝』夏号の舞城王太郎特集以来だった。

●山本浩貴「演説と記述 ––批評とは何とともに、何を考え、何を行うものなのか?」を読んで、自分の中での批評について整理できた。新潮が出たばかりのときのこの文章の感想として、タイトルにもある演説の方の危惧?みたいなことについてが多かった気がするが、結構普通に批評の状況(論)?と山本さんの〈アトリエ〉概念のわかりやすいまとめになってた。

令和人文主義という単語は、流行って割とすぐに、ゲンロンの植田さんが「(未だに)令和人文主義とか言ってるのは僕と東(浩紀)さんだけだ」と冗談で言っていたように、ニューアカみたいに(ニューアカという単語も当時もしかしたらそうだったかもしれないけど)ある時代の知的潮流?として一時の流行を超えてまともに受け止められているのか微妙なところだけど、そこで挙げられている人たちに共通する点は確かにあるのだろうし、それを起点に考えられることは素朴に色々あると思う。と言いつつ、大体は資本主義に最適化された「知」のあり方だ、みたいな否定的な評価が共通認識になってる気がするが、山本さんは、《人物やアカウント》単位のそのあり方の危惧も当然示しつつも、まだ一読しただけだけど、読んでる側の印象だと、《令和人文主義は、活動様式の水準ではこうしたビジネス・経済メディアに隣接しながら、そのノウハウを、成果や上昇のためでは「自分本位」な探究へ組み換える潮流としてあると言えるだろう》というところを読むと、ビジネス・自己啓発一辺倒のフィールドで何か一段ズラすようなことをしているということは、昔は本をよく読んでいたが多分今は読んでいない姉が実家に帰ってきたときに、令和人文主義にあげられる人たちの動画を観てたりするのを見ると、一定度の達成はあるのかもと思ったりする。が、この後に続くのは政治家のことだから、あくまでここだけで判断することではないが。

でも実際、注釈(*17)でも、《『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で提起される「半身」と読書をめぐる議論には、本論でいう〈アトリエ〉と近接する部分がある。仕事に全身を同一化させず、それ以外の居場所や文脈を持ち、孤独に本へ没頭して、自分とは異なる時間や他者の文脈に触れる余白を誰もが確保できることは、今求められる重要な社会的条件だろう。また、谷川が令和人文主義に見出す「自己満足」的で「自分本位」的な興味関心から始まる読書や学び擁護にも私は大いに賛同する。その上で、これらを本稿の議論に返すならば、〈アトリエ〉は、読み書きを生物の営み全般のなかに位置づけ直すとともに、「自分のため」に始まった営みが別の人体にも「自分のため」に使い直される過程をより詳細に捉えるための概念だと言える》と書いていたり、個別の書き手の論は山本さんの論とも切断されたものではないことは言っている。

●《なお東と対話する福尾匠はいま最も「書くこと」を重視する「批評家」のひとりである。福尾は同対談で、自身の『置き配的』が批評を「もっとも自由な散文」と定義したことについて、「批評家とは手だけでなく足も動かして、自分のアイデアに自分自身が転がされていくさまをあられもなく見せていく面白い人間なのだということを示す」意図があったと語る。「まず人間だと思ってもらうこと、そしてこいつはものを考えていると思ってもらうこと、この二つの壁を越えるのは、実はいまかなりハードなことです。それは個々人が自分の好奇心やアイデアに転がされていくなかで、自分にしかできない書き方を獲得するということでしか達成できないと思います」。福尾にとって「批評的」であることは、状況に対する一回ごとの価値判断や、完成した理論体系の提示である以上に、ある「概念」のもと長期的かつ断続的に思考が変容していくプロセスを見せることであり、それは同時に人間的で信頼可能なものとして自身(の仕事)をパフォームすることでもある。ゆえに批評は、人体が一挙に全てを処理することのできない「文章」のかたちで実践されるべきである、と。これは人間が瞬間的に抱いていたアイデアをAIによって大量の事例に刺し貫くかたちで長文がいくらでも書けてしまう(人体がその分量を生産・消費する上で被るはずの思考の動きと、生成された文章の持つ思考の動きが、スケールとして釣り合わない、いわば無時間的長文が溢れつつある)現代に、人間が一文ずつ(まさに「文芸」として)「書くとこ」の意義を問うものとして重要だが、一方で、そこでの「批評」のもつ可能性はほとんど「読み書き」そのものの可能性に近く、小説など他の形式にも同様のものが見られてしまい得るだろう(特に近いのが「小説の自由」を掲げ近年はほとんど批評とも見紛う文章を発表し続けている保坂和志の議論である)。ただ当然ながらここで見つめるべきは「批評」と「小説」の派閥争いなどではなく、両者が自身固有のものとして抱え込んできた「読み書き」における技術がどう共通平面上で把握可能か––そして非言語表現へと展開され得るのか––であり、例えば福尾が言う(「置き配的」や「疎」と「密」といったネーミング、「日記」の継続的公開、さらには荘子itとのPodcast「シットとシッポ」をはじめとした喋りによって自ら体現するところでもある)オリジナルな「概念」とその生活上の「運用」が、小説における「(「私」も含めた)登場人物」や「場面(展開)」などとどう(人体にとって)近く、あるいは遠いのかを見つめること、そこからそもそもの「読み書き」の人類における意義自体を発見し直すことだろう。》

ここを読んで、規模とか細かくやっていることとかはもう全然違うけど、私は山本さんのやり方や思考、論にかなり影響を受けている訳だけど、自分がやっていく実践としては福尾匠に近いことを今後やっていくのかもしれない、と本当に漠然と思った。

とはいえ、全体を一読しただけだから、またしっかり読み直したい。

●《生きものがみずからの物質的組成のうえに仮構させる抽象的な厚み/質––いわば魂––》という魂の唯物論的?説明がいいと思った、ゴリゴリの科学主義みたいな人が仮にいたとしてもこの説明には納得できるんじゃないか。

●山本さんから「me and you club」の名前が出るとは笑

●最近、ヒップホップをがっつり聞いているので、このホームページのトップが物騒になっていてウケる。

Profile
滝鷹介 Taki Yosuke

1997年神奈川県生まれ。小説家。POLY LIFE STUDIOを主宰する。

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日記 definitive

(ほぼ)毎日更新。各回のサムネと1行目は、サブスクで新しいアルバムを聴くのは1日1枚までという自分ルールのもとでその日に選ばれたアルバム。

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