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日記 definitive

2026.09.10

2026.05.15(FRI)

●((( O ))) (The Sundrop Garden, US)「(((5))) 」(2024)

●『ひらやすみ』の新刊10巻を読んだ。感想を書こうと少しパラパラと読み返したら、読んだ直後の感想と違って、俯瞰した視点での感想になっていることに驚く。でも、読んだ直後に書いてしまうと言葉が出てきすぎると思って、一度気持ちを「沈殿」させてから書こうとは思っていたのだが、困った。一度あえて「勢い」を抑えたのに、そのときの「勢い」みたいのをもう一度立ち上げようとしているのだから、一見倒錯しているようだが、なんだか小説もそのようなものという気もする。

単行本の帯には「物語、遂に、ゆっくりと/クライマックスへ。」とあるように、確かに話としては進んだ。ヒロトは石川とともにフラれたし、山田はドイツ行きを決め、ヒロトが「やりたいこと」を決めた(らしい)。
とにかく思い出すのは、一読した後に落ち込んだような気分になった。だから、これから書くことはその自分の感情を「説明」するかのような、出来の悪い評論のようになるのかもしれないが、ドゥルーズの言う〈愚劣〉とは、

《ただ特殊なもののみが与えられていてこの特殊のために普遍的なものを見出さなければならない》《反省的判断力あるいは美的判断力》
(マルドロールちゃんのうた『文学フリマで書いた文章を公開します』、https://www.youtube.com/watch?v=1W2l_goV12A 、2026年5月16日最終閲覧)

なのであって、人間の愚かさの典型あるいは定型でもあるのかもしれない。

●物語も「進展」し、何かを閉じる方向に向かっていく予感のあるこの漫画はそろそろ終わるように思える。ヒロトが「本当にやりたいこと」は今回の巻だとまだわからないが、普通の展開であれば、その「本当にやりたいこと」が始まったらこの物語=漫画は終わるだろう。「本当にやりたいこと」は、柴田との接触を経て思いついたのであろう何かで、介護の仕事なのか掃除をする仕事かお手伝い屋みたいなものか意外とレコードに関連して音楽関係なのかもしれないが、その「内容」は大した問題ではない。

(追記。と言いつつ読み返していたら、「本当にやりたいこと」が分かるシーンの直前に、《カレーの匂い》を感じているから、カレー屋なり料理系なのか。そう考えると、唐揚げのレシピを研究?しているヒロトに対して、なつみが「ホント好きな、料理…」と言っているのも、かなり分かりやすい伏線か。)

私は『ひらやすみ』について、POLY LIFE STUDIOで制作しているZINE『はんちか』のVol.1に収録した「犬は吠えるが往復書簡は続く」という記事のために行った往復書簡で、ヒロトが友人のヒデキから「お前はそのままで最高なんだから大丈夫だ」と言われたシーンをあげて、《フリーターであるヒロ兄が「今の」そのままの存在を肯定された、ということがすごい》と書いたことがある。私が思う『ひらやすみ』の面白さというのはまさにそこで、30歳のフリーターという社会的なマイノリティ、往々にしてそれはモラトリアムと言われてしまう、であるヒロトが人間性(というのは安っぽくてイヤなのだが)によって周りの人に「そのままでいてほしい」「そのままで最高だ」と言われるように、マイノリティから社会性に帰属して認められるのではなくて、マイノリティのマイノリティ性によって(例えば、暇人で、おおらかで、将来を考えていないような)それがポジティブなものに転換する(正確に言えば「転換」するのではなくて「なっている」)ところがすごいと思う。

《苦しみがそのままそこからの解放でもある音楽》

このマイノリティがマイノリティのままでというのが重要で、私が観ていて最もくだらないと思う物語の定型の一つが(定型である時点でイヤなのだが)、社会やコミュニティで阻害されていたマイノリティが、何かのきっかけでマイノリティ性を活かせる特技のようなものを見つけて、最終的にそれらで「成功」するなり人々を感動させたりして、コミュニティの人らや社会的に認められる、というような筋の話だ。(しかも、多くの場合、例えばもともとマイノリティのキャラをいじめていたようなマジョリティの側のキャラが、最後に過ちを認め互いを認め合う、かのような演出がなされることもタチが悪い。それはいじめっ子がマジョリティとしての横暴を反省した(=マジョリティとマイノリティの共生)というよりも、マイノリティ側のキャラがマジョリティの論理の中の「強者」になって、いじめっ子を屈服させただけだ。そこではマジョリティの論理は保存されるどころか全体として強化されている。)

それは、マイノリティ性の中の一部を、マジョリティ=社会に認められる・受け入れられるような鋳型で変形させただけで、そのままマイノリティ性を肯定されたわけではない。肯定であるのが重要で、承認されるというのは、ある基準のようなものがあって、排除されるべき〈外部〉が暗に措定されている。

●2月から地元に戻っていて、日に日に地元のことが好きになる。実家を出て一人暮らしを始めたのは大学院に進学した22歳の時だけど、自分の感覚では、少なくとも大学進学した時点の18歳の時には、実家にはいるものの地元との関係というかそういうものは切れていたという感覚がある。それは、その頃には小中学生の頃の友だちと一切会わないとか、大学の友達のほとんどが地方から来た人だった、とかが関係あるのかもしれない。

とにかく、一人暮らしを始めてからは実家に帰ることも年に数回で、帰ったときも地元で人と会ったり出かけたりすのではなくて、「点」として実家に帰るだけだった。(そしてそれは大学の時もそうで、駅まで自転車で往復するだけで、それも「点」の移動だった。)だから、最近、ちゃんと実家に越してきて、ブックオフに行ったり、近所を散歩したり、ポストに投函しに行ったり、100均に買い物に行ったりして、改めて地元に「住み直して」いる感覚がある。

少し前までは、中学の頃のイヤなイメージなどから、地元を厭がって(イヤでも嫌でもなく、厭世という単語で言われるようなニュアンスで厭)いたけど、29歳にもなれば、考え方も10年前とかなり変わり、冷静に?地元をある一つの土地として見られる。とにかくここは自然がいい。自分のイメージではうちの街は、山や畑、田んぼが広がる本当の自然豊かな「田舎」でも、もちろん大きいビルが建つような都会でもなく、とにかく住宅街しかない本当の?「田舎」みたいなイメージだったけど、ちゃんといい自然もたくさんある、ということを実感している。

といっても、それを主に感じているのは公園を散歩しているときなのだけど、その公園というのが、人工的というよりは、自然の一部を(かなり広く)そのまま残しているような自然公園という感じでそこがとにかくいい。近所には、谷戸山公園という名前の通り里山をそのまま残したような公園と、芹沢公園というこれもその名の通り水源地を残した公園がある。
それぞれが都内とか同じ神奈川県でもあんまりないくらいちゃんと広い公園で、特にどちらも(座間という街がそもそもそうなのだが)高低差や起伏があって、特に谷戸山公園の方を歩くのは本当に山に分け入っていく感じで、陽が落ちて来ると当たり前だが本当に暗くて怖い。(ということは外の光が入り込まないように木が密集してて地形も複雑ということだろう。)

散歩をするときはいつもイヤホンで音楽を聴いているのだけど、イヤホンを外して谷戸山公園を歩いてみたら、虫と鳥の声が本当によく聞こえる。日没に近い夕方に行ったので、ほとんど人とも遭遇せずに「山」の中を歩いていると、本当にただ自然の中に「ある」ようになる。もう少し明るい時は、樹をゆっくり見たり看板を読んだりしているけど、それともまた違う感覚。そのようなとき、こうやって散歩しているのは小説を読んでいるのと同じだな、という感覚になったりするのだが、なぜかその感覚は説明したり深く追求したりしたくない。

私の狭い観測範囲で、いぬのせなか座の山本浩貴さんが、ゲンロンの四国のイベントで、地元の四国の話から批評の深い話をしていたり(らしい)、Dr. Holiday Laboratoryの山本彼等さんがポッドキャストで、ガルシア・マルケスのコマンドのように、地元というのは異物感というかグロテスクというかそういうものが現れる(全然違うかも)話を確かしていたのだけど(加えて彼等さんはXで「最近地元が暑い」ともいっていた)、私の発見?した地元はこんなに平和でほのぼのしたものでいいのか。いいのだ。

公園を出ようとしたところで、ハスキーを見かけた。多分、昨日のハスキーか。今日ハスキーを連日見たことによって、遡って昨日の日記にハスキーのことを書いたのではなく、ただなんとなく書いただけだったので、偶然に少し驚く。

Profile
滝鷹介 Taki Yosuke

1997年神奈川県生まれ。小説家。POLY LIFE STUDIOを主宰する。

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記事紹介
日記 definitive

(ほぼ)毎日更新。各回のサムネと1行目は、サブスクで新しいアルバムを聴くのは1日1枚までという自分ルールのもとでその日に選ばれたアルバム。

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