2026.05.30(SAT)
●Hania Rani(Poland)「On Giacometti」(2023)
●https://www.youtube.com/watch?v=iUItdbMuuj4
Can’t Sleep!!Can’t Sleep!!!
自爆のボーカルといいこのボーカルといい、カート・コバーン系のこの声は天性のギフトだ。もっと遡れば、まずはジョン・レノンだが。
●六本木のA/Dギャラリーで安藤裕美 個展「Still Life in Life」を観る。初めて行くギャラリーだと思ったら、森美術館のミュージアムショップに併設?のギャラリーのようだった。
安藤裕美(以下、敬称略)は梅津庸一が主宰するパープルームの画家で、パープルームについてはnoteで書いたこともある。
https://note.com/polylifestudio/n/n1f80b8a79c8d
安藤の絵については、パープルームギャラリーに行った時には、ユニークな色で静物画(「物」というより「場所」)を描く人だなと思ったくらいだったけど、今回改めて見に行って良かった。絵画(特に油彩)の実物(画像ではないという意味)を観るということについて、凹凸などの立体感は強調されてよく言われると思うが、今回感じたのはまずは色だった。画像で観る限りだと、安藤の絵画に共通するトーンのようなものを感じていたのだが(マティスと聞いてイメージするトーンがあるように)、安藤の作品は、雑に言えばカラフルで原色的な色を多用しているという共通点はあるのだが、通して観ると色のトーンの統一感を意外にも感じなかった。それがすごいと思った。作風が固まる前の画家や作家(絵画以外においても)が色々試してる、みたいなのとは当然全然違う。

この作品では、画材としてスミが使われていた。(画像はXから拾ってきてしまった、すみません。)私の念頭には、古谷利裕によるマティスとピカソの講座(https://inunosenakaza.com/modern-painting/lecture1 )での話があるのだが、用語や概念の誤謬があるかもしれないが続ける。マティスのある種の絵画では、色の使用について、光が多く当たるところは明るい色で、光があまり当たらないところは暗い色で、という文法が崩されて、影にあたる部分に彩度(明度かも)が高い色が使われている。ダヴィンチに至って完成した、西洋絵画の正当な「デッサン」的な光の捉え方から抜け出る、まずは色彩による空間の構築(?)。「日常的な」物の立体感や配置関係と異なる、絵画内での空間(のようなもの)が現出する。

これも古谷さんのスライドから勝手に持ってきている、すみません。

↑これとかが分かりやすい。色が単なる塗り分けでも3次元的な光の把握でもないものを生み出している。で、安藤の絵はこれに近い。スミは油彩の黒よりも「ベタ」な印象で(まさに漫画のベタ塗りのように)、そこだけ光沢や奥行きが消失した印象になる。しかし、単なるタイルや図形の塗り潰しではなく、あくまで他の画材と同じように(筆を持ち替えるように)塗られているので、当然、スミ以外で塗られた部分と関係を持つ。(抽象的な意味ではなく、具体的に他の絵の具と隣り合ったり浸透し合っている。)例えば、手前の茶碗に塗られた茶碗のスミの黒は、普通に考えれば奥の窓から射す陽の光によってできる陰を表してるわけだが、そこがベタの黒で塗られていた遠近感が消失していることで、少なくとも私には、むしろ光がハレーション?して色彩が失われた(つまり、反対に画面手前側から光が当たっている)ような印象も同時に感じられた。

これもXからですが。
この絵は展示の絵の中で一番(というか唯一)キャンバスの地の部分が意識的に使われている。(絵の中の白と赤のグラデーションのように塗られた部分。だから、そのままの無地のキャンバス地ではないのだが、これはどうやって塗っているのかわからない。)さっきの絵と同様に色彩について言えば、同じく古谷利裕が井上実(今、彼の個展も開催中で、来週までだから来週行く)の絵について話している動画↓で言っているように、キャンバスの地(あるいは単にキャンバスの白)は普通は一番明るい部分として使われる。と言っても、ゴッホですら、木炭デッサンのときはキャンバスの白を意識して明暗を表現しているのに、油彩になると全体を塗りつぶしてしまい、キャンバスの白は(意識して)用いられない。(古谷はそのように言っていないが、「別のモード」で絵を描いている、ということだろう。)《キャンバスの上に絵の具をのせる→絵の具の背後に白(最も明るい光)がある》ということ。井上の絵画は明らかに全体を通してキャンバスの白が感じられる。(もちろん、ただ感じられればいいという単純な話しではないが。)
それで安藤のこの絵でも、キャンバスの地が用いられている。細部を一旦無視して考えれば、スマホの画面がキャンバスの地になっていることからも、明るい部分をキャンバスの白として描かれているとまずは考えられる。パソコンのキーボード部分のキャンバスの白は、左手前か頭上からの光が当たった白だと。(それでもスマホの画面に黒のシミみたいなのが描かれていたりそんなに単純では当然ないのだが。)しかし、一方で、キャンバスの白は明らかに物の輪郭線としても用いられている。左手前の容器のようなものやパソコン、右手前のマグカップ、スマホ自体もそうだ。こうなると、キャンバスの白は2つの役割というか異なるレイヤーを持ち、網膜や写真におけるある色彩の置換?(マゼンタの成分が強い部分を白で表したとか、明度の高い部分を白にした、とか)では全然なくなる。
別なところで言うと、スマホやパソコンの画面が描かれることによる「面」の意識も強く喚起される。これは、いわゆる劇中劇や小説内小説のように(絵の場合はなんと言うのだろうか?)、構造としてメタレベルの違うものがある、みたいな概念的なことではなくて、もっとリテラルな意味だ。
考えてるのは古谷の偽日記でも言及されている、鈴木一平(や同じくいぬのせなか座の山本浩貴)が鈴木一誌を引いて論じる、フィジカルの本における「面」の話しだ。(古谷はそこから絵画に話を応用する。)
《本には、物体としての側面とレイアウトとしての側面とテクストとしての側面の三つがある。物質としての本は厚みのある三次元空間の中にあり、目には、本のページは台形として見えている。しかしそれをレイアウトとして捉える時、それは常に正面性を保った長方形の「平面」となる。面が平面となるときそれはは拡大・縮小も可能となり、時間も捨象される。次に、テクストとしての側面に入っていくと、テクストの連なりという形で、再度、時間が仮構されるようになる、》
これと同じことが絵画に描かれたパソコンの画面にも言える。(というか、「現実」のパソコンの画面にも、だが。)絵画に描かれたパソコンは、他の静物と同じようにただ見たままの(平面も含めて)物体的輪郭や表面を描かれているように見えても(素朴な意味ではその通りなのだが)、実際の認識としては、斜めの矩形として描かれた物体としての面は、レイアウトとしての面としていくらか補正される。が、写真の中や、現実に置かれたパソコンの画面を見ているのとこの絵画が違うのは、なんというか、パソコンが写実的にというかあからさまに描かれていないということだ。つまり、大前提として、キャンバス上の絵の具の染みが3次元なり異なる空間を現前させる(ここにはスイカが無いのにスイカを感じる、というように)という、最も素朴な意味での絵画におけるイリュージョンとしての力学・拮抗(①)、キュビズムや抽象画に分かりやすいように、絵画のイリュージョンは認めた上で「絵として」これは「何を表しているのか」という認識の次元(②)(これは、スイカかスイカではないかのゼロイチではなく、もっと連続的なグラデーションだ)、そして、パソコンの画面として補正される、リテラルな面とバーチャルな面と認識の混合状態(③)、という少なくともこの3つがこの絵のパソコンの画面を見ながら、存在?する。
もちろん、これはスマホの画面も同様。それどころか、そのようなパソコンの画面とスマホの画面が、背景の中に配置され、空間的な位置関係も発生・介在することで、実はものすごく複雑なことが起こっていると思う。(ただでさえ解けない三体問題が、互いに依存し合う2つの系としてある、みたいな。)
いろいろ言いつつ、全体の空間として、奥行きを増している、いやそれだとややこしい言い方だが、空間を豊かにしているのは(単に次元を増やしているというのでもない)、右上の奥行きを感じない壁のような部分だと思う。写真だとむしろ「絵画内の」ではなく「絵画の表面」にあたる光によって光沢が現れているが、実物はもっとベタ塗りで、かつキャンバスの白があるから異質な平面に思えた。そこがパソコンの空間とバッティングしている。そこがとても良かった。
と、絵の素人としては(これは謙遜でも、謙遜による説得力の強化でもなく、事実として)、以上のようにここが面白いと「指をさす」のが限界で、そこからの「価値づけ」は批評家の仕事だと思うが、まあそれでいいのだ。
●帰りに、パッドによるマッチョ豊胸の広告を見て笑った。自分を律する厳しい自己鍛錬によって力強い肉体を手にいれる、というそっちの思考(マッチョイズム)ではそれは「反則」では無いのか笑。
●なぜX的なSNSがイヤなのか、話そうと思えばいくらでも話せるのだが、一方でどう説明してもどうもモヤモヤしてスッキリしなかったのだけど(イヤなものについて語っていると、それ自体イヤな空気が出てくる)、割と納得いく説明が思いついた。細かい論理はすっ飛ばして、「Xは健康に悪い」。これだ。
●陽が伸びた!19時過ぎでも部屋からまだキレイな夕焼けが見える!