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日記 definitive

2026.09.23

2026.05.25(MON)

●Hania Rani(Poland)「Esja」(2019)

●バイト先で入れ替わりで退職する人と歓送迎会をしてもらった。社長が「音楽業界なんて変な人しかいないんだから!」と言っていて、「なんて自分に合うところに入れたんだ!」と思った。言葉の内容と言うよりは、そう言われる雰囲気とか全体に。

●「ある」を証明するより「ない」ことを証明することのほうが一般に困難だ。保坂和志はa=1とa≠1はその式の持っている情報量?は全然違うみたいな言い方をしていた。a=1は一対一の対応だけど、a≠1は1以外の無限の選択肢を内包している、というような。(一方で、C++のような単純なプログラム言語でも、「!=」を扱えるのは素朴にすごいとも思う。)

分かりやすい比喩で考えると(だから色々こぼれ落ちるものがあるが)、a=◯という時に、◯という「箱」に入れるのが1だとa=1になる。a≠1は◯という容器に1が入らないことだけがわかっている。だけど実はこれもまだ不正確で、a=1だと1以外の可能性はないけど、a≠1はaがとる値が複数でもいいし(例、a=1,2,4)、関数だったりしてもいい(例。a=2x-1)。だから、a≠1は◯という安定した一つの「箱」を想定することもできない。これ以上「箱」の比喩で広げるのは限界だけど、とにかくa=1とa≠1は情報(というのが微妙なら言語)としてメタレベルが明らかに違う。

だから、この非対称性?みたいなことを悪用すれば、爆破予告でイベントを中止させたりすることが可能になる。「環境情報棟の201教室(そんな教室が東大にあるのか知らないが)に爆弾を設置した」という予告なら、その教室という限られた領域をくまなく(本当はそれも限界があるかもしれないが)探して「そこに爆弾がある」を否定すれば、それが嘘(=偽)であることを証明できる。これはa=1の方を扱っている。
(ここでややこしいのは、最終的に証明したいのは「教室に爆弾がない」という一見「a≠1」の形に思える命題だが、実際に確かめるのは、例えば「a=1」を「教室に爆弾がある」とした時に、「教室に爆弾はない」を証明するのは、a=1or2の2通りしかないのがわかっている場合において、「教室に爆弾はない」という具体的な「a=2」を証明することによって「a≠1」が証明されるので、一般の「a≠1」と質が違う。結局「a=2」だけで決まる「a≠1」を証明するのは「a=1」に近い方の証明だ。)

一方で「東大の駒場キャンパスに爆弾を設置した」では、キャンパス全体をくまなく探すというのが実質困難で、これ(=「キャンパスに爆弾はない」)を証明するのはa≠1の方に属する。ある一つの教室を確認すればいいのではなく、捜索範囲は教室・トイレ・食堂の椅子や机、樹木の一本一本・……とそもそも確かめていくべきa=◯の「箱」としての◯の数が絶対に確定しない(認知としてはほとんど無限と同一になってしまう)。これを「証明した」といえる「基準」のようなものがそもそも打ち立てられない。
(例えば、大学側が「キャンパス内を入念に捜索し安全が確保できました」などと発表しても、「そんなことが可能なのか?」「(具体的な箇所を指定して)どこどこは確認したのか?」と疑義を挟むことができる。だけどちなみに、ここで権力という暴力を用いれば、それを信じさせることはできる。それは必ずしも恐ろしい国家・体制などではなく信用できる国家・体制でも同じことだ。もっと言うとトランプみたいな人はそもそも周りを無視して強硬するが。)

ここで、その命題を明確に否定できる強い権限?があるのは、爆破予告者という命題の「出題者」だけだ。(どちらかといえば命題の「取り下げ」だが。)ここにも大きな非対称性がある。

とはいえ、少し「a≠1」と無理やり話を寄せ過ぎているかもしれない。教室でOKなのがキャンパスだと不可能なのは単なる広さの問題に過ぎない、とか。でも、それでも人間の身体の大きさ(スケール)は変わらないから、教室1個はOK、教室2個もOK、建物1棟もOK、建物2棟もOK,…でどこかで質的転換が起こるはずだ。(具体的な閾値は問題ではない。)さらにいえば、範囲が広すぎると元々の「爆弾を設置した」の方の命題の効力がなくなるだろう。「都内のどこかに爆弾を設置した」は規模がデカ過ぎてうさんくさい。

ちなみに私は東大のニュースはなんとなく耳にしただけで詳細は全く知らない。

●pinterestを見ていて、いい感じのネイルを見て私もやってみたいと思うのだが、例えばバイト先で何かの拍子に、PCの画面を呼び指したみたいな指にどうしても注目が集まるタイミングで気づかれたら、「面倒くさいな」と思ってしまう。一人で楽しむ分にはいいのだが、と。でも、これはファッションのジェンダーロールとか単純に自意識の問題とか、そういうことももちろん言えるが、一方で、実際でもそれがオシャレなのか?と立ち止まって考える機会にはなると思う。

例えば、「男性」がスカートを履いてみたいと思ったとして、「男性」としてスカートを履くというステップに社会的抑圧を感じるけど、それを超えた?ところでスカートを履けばなんでもオシャレになるわけではない(もちろん、その人はオシャレとしてスカートを履きたいと思ったとは限らないが)という次元がある。もちろん「女性」でもオシャレなスカートの履き方とそうでない履き方があるだろう。

が、「オシャレ」の能力主義みたいな話はやめよう。こういう話は人を萎縮させる(つまり権威を生む)。

●味覚は味覚と同じ次元(文字で表すなどでないという意味)で(少なくとも個人レベルでは)「記録」することができない。嗅覚も同様、どころか、料理によって再現が可能なことも多い味覚と比べて、さらにより困難である。視覚は例えば写真に撮れる。聴覚も録音できる。ここに大きな何かがある気がする。
(それは写真や録音が可能になったばかりの時代の人だったら、神秘が奪われると表現したかもしれない、が、それだけじゃないはずである。)

●懇親会の帰り道にホセ・ジェイムスを聴いていて、ドラムセットの中で音響的に一番優れている(雑な言葉だ)のはリムショットの音ではないかと思う。キックやハイハットが20世紀(以降)の音楽、特にポップミュージックにとって、影響与えたというどころじゃなく重要すぎるのはわかっているが、キックやハイハットのおおよその音程と役割はある程度他の要素で置換ができると思うが、単に「波形」「音色」でいうと、リムショットはちょっと代わりがない気がする。まあつまりそれはパーカッション的だということだが。

リム・ショットが鳴るたびに、脳がスキャン?されるような何かが通過していく感覚がして気持ちがいい。

Profile
滝鷹介 Taki Yosuke

1997年神奈川県生まれ。小説家。POLY LIFE STUDIOを主宰する。

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日記 definitive

(ほぼ)毎日更新。各回のサムネと1行目は、サブスクで新しいアルバムを聴くのは1日1枚までという自分ルールのもとでその日に選ばれたアルバム。

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