2026.05.26(TUE)
●Svaneborg Kardyb(Denmark)「Over Tage」(2023)
●沢瞳加『たにんの爪』を読み終わる。やっぱりインディーズ?でここまで書けてる(って何かを言ったことになるのか分からないが)人は他にあんまりいないんじゃないか。(だからって「プロ」がみんなよく書けてるとか思ってない。)この文章が小説かどうか(誰にとって?)なんてなんでもいいが、本人はこの『たにんの爪』に入った元の「沢澤」というブログに書いた文章とは別に小説を書いてる風だったから、この書き方でいわゆるフィクション的な?ものがどうなるのかを読んでみたいと思った。
とはいえ、日記とかブログとかを暗に「未完成」であるかのように、フィクショナルで作り込まれた小説が「本域」である、というような考えは本来つまらないのだが、私にもそういう考えがどこかに残っているかもしれない。(単純に、自分のことも他の人も、私的なことにあまり興味がないだけかもしれない。)
(いや、でも、『パターソン』や『プレーンソング』が好きなのだから、プライベートな感じとか身近な生活?の感じが嫌いなわけではないだろう。それらが著者・作者=語り手・主人公ではないのが担保されてる、ということを差し引いても、そこに何かがあるように思う。)
●駅で階段からホームに上がった(降りた)人たちがどこの電車の乗り場に並ぶかとか、男子トイレに入った人たちがどこの小便器に向かうかとか、そういう「群衆」的な人の流れ・動きは(一面では)かなり正確に計算して予測することができるだろう。予測することができれば、何かに向かって誘導することもできる。それがファシズムの一面でもある。
でもこれは、空いてるとこに行きたいとか、あんまり遠くまで歩きたくないとか、効率とか規則とかに従う感覚がまずもってある程度共通しているから、「数としての群衆」はそうなる。逆に、どうしてもここの車両に乗りたいとか、端っこの便器じゃないとおしっこできない!とか、「個人」の非社会的?なこだわりや嗜好でどんどんズレさせることは可能だ。もちろんそもそも綺麗に列になって並ぼうとしない、みたいに規則を守らないという方向性でも。ファシズムからズレていくのも同じことだろう。
「数としての群衆」の行動は、確かに一面としては統計的によく予測と一致したりするが、一人一人の行動や意志は全くそれと関係ないし(少なくともそう思うべきだ)、そもそも統計でさえ必ず毎回100%は当たらず、それから外れる一人一人が確かにいる(マイノリティの問題)。それを忘れてはいけない。
●メガネの調整がズレてきて耳の上が痛くなってきたので、裸眼でバイト先に向かって、渋谷のスクランブル交差点の近くでメガネをやっとかけたら、一気に視覚が立ち上がった感覚があった。明らかに原初的な目の快楽がそこにはあった。それは多分、渋谷という都市の風景の過剰さにもよると思う。