2026.05.18(MON)
●Les Imprimés(Norway)「Rêverie」(2023)
●続き。前回、『ひらやすみ』と『鉄の胡蝶』の連載について書いた。私は連載というのに、〈私〉の生活(など)の時間と連載という時間が並行して?あるような特別な感覚を感じている。〈私〉と連載する漫画・小説に、同じ時間が流れるのではなくて、ともに時間が流れる。
表面的なレベルでは、単純に連載で読んでると、時事的な話題や同じ季節が書かれてることによって、共感というか、同じ時間を共有しているという感覚になるということもある。漫画で夏で海に行ったり、冬にクリスマスが描かれたりする。でも今言いたいのは、〈私〉の方の時間と別に連載という時間があるというようなことで、それらは基本的に独立だけどそれを読んだりすることで、〈私〉の方の時間も共振する。だから、その在り方をかんがると、前回書いたすでに完結した小説を読むときの、「自分の部屋を持つ」ように小説を読むたびに〈私〉の時間の中に違う時間を持てるという在り方というのは、連載を読むときをより広い一般の場合としたときの静的な極限としてあるのかもしれない(ここでいう極限はいうまでもなく、究極みたいな意味ではなく、発散・収束とかの数学的極限)。つまり、連載の方は、連載の方の時間も動的で、〈私〉の時間も当然動的だが、完結した小説では、小説の方の時間は固定しているというようなイメージ。
簡単なアナロジーとして、〈私〉が生きている時間と(連載=)樹木の時間、みたいに言ってもいいかもしれない。それらが交差し影響し合うことはあり得るが、根本的に同一のものとはなり得ない。狭義の「作品」一般にそういうことが言えるかもしれない。
『ひらやすみ』の連載が終わってしまう(今更だが、ここでいう連載を読むというのは、必ずしも月刊誌を最速で読むのではなくても、私のように単行本を追うのも一緒だ)のに何かを感じたのは、ここ数年並行した時間としてある面では私を支えてくれていた漫画が、連載中から完結することで、その在り方・関わり方が質的に変わってしまう、ということを感じるからかもしれない。
●最後にネガティブなことを言うのもなのだが、10巻の柴田とヒロトのシーンで、まわりに愛されて暇人としてフラフラと自由にフリーターとして生きてきたヒロトと、模範的な〈父〉として銀行員として働き〈家族サービス〉もして家族を養ってきた柴田という対照的な二人が、《どーすん》のか《本当に》《わからない》、《頑張って生きてきただけなのに》《わかんない》と言って二人とも泣き崩れるというのは、(漫画のワンシーンを社会の縮図として、正確に社会を表していると考えるのはもちろん単純すぎるとはいえ、)あまりに社会が最悪なのではないか。(漫画の中の社会ではなく「この社会」が。)
●昨日の日記でお金がないことについて書いたことに付け足すと、文フリで買った沢瞳加『たぶん そう』を文フリの直後に読んだけど、そこでリボ払いのことが書いてあって面白かった。私もリボ払いしまくっている。小説自体の感想もまた書くかもしれないが、沢さんの小説や特にXとかの文章?は〈切断〉があるというか、思考が都度晦渋する感じが良い。
一番、覚えているところ。
融通のきく非正規雇用を続けるというせんもあったが却って職に就きたいと思ったのは、サクッと短期間で向き合えそうにない不確かな要素ばかりの小説と腰を据えてやっていきたくて、やっていきたいというのも変な話だが、一番はもうなんの仕事をするかしないかを考えたくなかった。なんとなく正規雇用になることを避けてきた人生がころっとつぶれて、適職じゃなくてもいいから長く続きそうな会社で正規雇用を目指せる仕事に就いた。不安定な小説というものに関わりにいく自分なりの覚悟として、初めて安定を求めたのだった。
私もずっとバイトをしていて、そもそも、週5で働いていた時に心身に不調が出たり、そこまでいかなくても忙しくなると心が不安になったりするので、週5の労働に耐えられないということもあるが、まあとにかく非正規雇用・フリーターその他正規雇用というマジョリティではない暮らし方?に何かがあると思っているし、単純に働き方のバリエーション?が狭すぎるとも思う。
いつも思うが、日本では週5で8時間が法律上も人の意識的にもごく普通に基準になっているけど、考えてみると驚くべきことに「週5で8時間」が最も生産的だとか最も健康的に生きられるだとかそういう根拠は全くない! で、当然障害とか病気とか他にももっと人や社会で分かってもらいにくい理由で「週5で8時間」も働けない人がたくさんいる。「週5で8時間」はもちろん悪意のある誰かが作ったわけではない。まず根本に資本主義というドミナントすぎるシステムが基底にあって、資本主義は人間が健康的に生きることとかそんなことを考えずに、富が増大する方向に人間の欲求(欲望?)をうまく利用しながら人間を駆り立てる。(酒井隆史は「資本主義は人間が完全に絶滅する少し先まで続く」システムだと確か言っていた。)それで人間も資本主義によって(すぐに)絶滅するほど従順ではないから、社会の持続性やそもそも個体としての人間の限界(徹夜で何日も働けないとか)もあるから、その拮抗として歴史的な経緯のなかで今は一応「週5で8時間」が基準とされている、ということだろう。
やっぱり心身が健康(健康を超えてだいぶタフな)いっぱい働ける人(という虚像)がスタンダードになっているのは無理があると思う。今言った障害や病気のある人だけでなく、現にどうにか働けている人も、私の身の回りの狭い範囲でも、社会人になってからメンタルヘルスの病院にかかったりしてる人が何人かいる。これは山本浩貴のXの投稿。
実際ガチで問題なのは、働いてると本が読めない、ではなく、働いてると健康的で自由な生活を送れない、という話であり、それは会社からのハラスメントや、貧困や、精神的な病の問題だったりするのであり、それを「本が読み書きできるかどうか」にすり替えること自体が詐術であるとも言えるかもしれない(@hiroki_yamamoto、午後11:23 · 2026年5月7日
、https://x.com/hiroki_yamamoto/status/2052393817975017721)
これは本当にそうで、そもそもただ働くことがつらすぎるのではないか。これは『ひらやすみ』の話にもつながる。
●話が脱線した。とにかくこんな感じで働くことについては色々考えてしまうのだが、小説と労働やお金の問題を考える上で、私は非正規労働でギリギリ生活できるだけの分だけ働いて、あとの時間をできるだけ創作などに使おうというのが今までもそうだし今の考えだ。けど、沢さんの引用したところを読んで、小説を書くために正規雇用をするやり方に一つの納得する解法?を示されて、今は全く考えていないが、いつかもし私が正規雇用で働くことがあるとすれば、引用部のような考えで持ってそれを決めることは一つの可能性としてあり得ると思った、ということを言おうと思ったのだった。結局その選択はしなかった(この過去形は未来のことなのに過去形だ)としても、可能的なオルタナティブな選択肢が増えることはとても有意なことだ。