2026.05.23(SAT)
●The Marloes(Indonesia)「Di Hotel Malibu」(2026)
●責任という(悪質な)形而上学。
●脚がつるかもっと一瞬で反応して親指を反らせたりする、その一瞬には〈時間〉は存在しないんじゃないか。必死で〈時間〉を「感じない」のではなくて「無い」。
●ジョン・ケージ『小鳥たちのために』(青土社、1982年、64頁)。
論理にとっては不幸なことですが、〈論理〉という項目のもとに私達が構築しているすべてのことは、出来事や実際に起きることに比べて非常に単純化されたことを表しているので、むしろ私達はそれから身を守ることを学ばなければならない。それが現在の芸術の役目なんです。瞬時、私達が流れ動いてゆく出来事を論理的に矮小化しそうになるのを防ぎ、世界の姿である過程(プロセス)へと私達を近づけることが、その役目なんです。
●『小鳥たちのために』がいい内容になっているのは、ケージの対話相手をしているダニエル・シャルルがいい感じに、ケージの完全な信奉者でも反対者でも無いことだと思う。なおかつケージの仕事についての知識はしっかりあるから、個別の作品や演奏についても指摘でき話が霧散せずに対話が続く。なおかつ(特に東洋思想についての話題では)しっかりケージの意図と違ったことや反論?を言うから、ケージが一言で言って済ます(「済ます」つもりは本人にはないが、自明としてしまっていることに自覚していないような)ことをもう一度換言して説明することになったりして、読者としてとても助かる。とはいえ、「いやだからケージが言ってるのはさぁ、、、」ってこっちが思ったりすることもあるが。
●ジョン・ケージのCDを集めたいが、現代音楽のCDは高いし、当然ブックオフとかだとほとんどない。どうにか安く買える方法をgeminiに聞いたけど、ディスクユニオンの専門館にいくと出てきて、そんなことはわかってるわい。それはそうと、『小鳥たちのために』を読んで、ジョン・ケージは複製された音源(つまりはレコード)は低く見てた?ということを初めて知った。それは音像・音響への意識が強くなった(簡単にいえばスタジオで遊ぶ)ビートルズ以降?の私達には一見「古い」意見のように思えるのだが、どちらかといえば作る音楽の指向性の違いの話だとも思う。単純にケージの音楽は録音(で再生されること)を指向しなかった。
●沢瞳加『たにんの爪』を読んでいて、この人(作者でも語り手でもどちらでもいい)は私と近いことをほとんど違うやり方で考えている、という気持ちになった。なぜかは分からない。
●電車に乗ったら目の前の人が裸足だった。私はなんとも思わずその人の前にい続けた。私もいい感じに社会性を相対化できていると嬉しくなった(意味がわからないと思うが)。
●一昨日日記に書いた「クロラジ」の最新回を聞いた。途中で小島信夫の話が出てきたと思ったら、保坂和志がミシェル・レリスの日記を褒めたと言う話が出てきて驚く。千葉文夫は『ミシェル・レリス日記』の翻訳者だ。
https://note.com/metalite/n/n179fa8320264
それに、もう一つ補助線を引くとするならば、それを教えてくれたのは研究書というよりも、保坂和志です。
これを読んだ時は、最初びっくりしたんですけれど、彼は非常に極端で、「レリスは作品より日記の方が面白い」「あまりレリスの作品には興味がない」とまで言うわけです。これは私にとって青天の霹靂で、普通は逆なんですよ。
2004年か2005年頃のこと、私がフランスの研究者にレリスの日記を翻訳したことを伝えたら、言われたことがあります。「あれはレリスとしては出すべき本じゃなかった。出してはいけないものだ」と。まあ、みっともないと言えばみっともない部分はたしかにあるのですが。これは保坂和志とは対極的な考えですよね。つまり、文学的な価値は作品にこそあるのであって、日記はそうではないという考え方です。
でも改めて考えてみると、レリスというのは完璧に日記の人だなと思う。『幻のアフリカ』にしても、保坂は「面白くて読むのがやめられない」と言うわけです。さらに保坂はカフカ、クロソウスキーにも言及する。
そこには何か、匂うものがあるんです。要するにいわゆる作品にはならないかもしれない。でも、そうではないところ――手紙や日記といったものから、濃厚に立ち上がってくる世界がある。保坂和志に言わせれば、それが「小説」なんですよね。
普通の人はそれを小説とは呼ばないかもしれません。ただ、そこにやはり書くことと生きることという問題系の、マグマのようなものがぐるぐると渦巻いている。そこまでいくと、やはりレリスやクロソウスキーが残るわけです。
●すごく浅いことを言うが、宇野邦一とか千葉文夫とかフランス文学者は話し方?振る舞い?が洒落ている、というイメージがある。