2026.05.27(WED)
●Corneius『デザインあ』(2013)
●日本人とバングラデシュ人というふざけた名前のユニット?の曲がyoutubeのおすすめで出てきた。往年の電気グルーヴという感じでいい。一見、インディーズ感丸出しのMVのように見えて、結構撮り方はこなれてるし手間もかかってる。あと、特に日本人?の方の人は「表舞台に出る」タイプの表情と動きができている。
●調べ物をしていたら、受験生専門の精神科のクリニックがあることを知った。しかも、HPをチラッと見たら、受験特有の精神的不調をケアするというのにとどまらず、受験戦争に打ち勝つためのマインドセットを作る、みたいなノリだったので驚いた。
フーコーを持ち出すまでもなく(と言いつつ、本当はそこまでフーコーを語れないのだが)、狂気や精神病の扱い?は医学のあり方と不可分なわけで、医学は毒にも薬にもなる、というのはつまらない冗談だが、例えば単純な外科的なケガであれば何が「治る」という状態なのか分かりやすい(少なくとも共通了解が得やすい)。でも、神経症や精神病(あるいはいわゆる美容外科も考えてみてもいいかもしれない)については、「何を治すべきか」と「どういう状態を治ったとするか」はその時代の思考様式?や社会にめちゃくちゃ規定される。ここ10年とか(もっと前から?)で発達障害(それ自体というより、それを取り巻くディスクール)が「流行って」いるのは、明らかにパラノ的な働き方が社会のデフォルト(であるかのよう)になってしまった成れの果てだと思う。
今言いたいのは、「何を治すべきか」=「狂気」の方ではなくて、「どういう状態を治ったとするか」=「社会」の方だ。中井久夫は、著書でよく書いているが、精神病患者に臨床の際に「せっかく(病気になったの)だから、もう少し違った(ゆるい)生き方をしてみてもいいんじゃないか」というようなことを言う。私はこれが強く記憶に刻みつけられている。(こんな慣用的じゃない言い方はないのだろうか。)詳しくは『働く患者』に入ってる文章に詳しいと思うが(読み返すのが面倒くさい)、患者は早く治って「普通に働く」ことを希求し切迫する。戻るべき社会は「普通に働く」ことが必須であるとされる。だから、中井久夫にそう言われた患者も、この記述を読んだ患者以外の人も、その提案は「普通に働く」という「真っ当なルート」から外れてもう復帰できない選択肢を提示している、とネガティブに考える人が多いかもしれない。
でも、週5で8時間働くホワイトワーカーが「普通」=マジョリティであることの不健全さ、窮屈さは私にとっては明らかで、だから、この「もう少し違った生き方」の方にとても希望を覚える。というか、ネオリベ的な考えが徹底された今の最悪な状況のオルタナティブはそれしかないんじゃないか。
話がいつも通り拡散したが(それでいい)、受験戦争や週5で満員電車に乗って会社で真面目に働く社会に戻るための治療がいいわけねえだろ!と最初は言おうと思ったわけです。
●少し前に『再読だけが創造的な読書術である』を読んで、内容はそんなにだったが、前作の『積読こそが完全な読書術である』では積読も含めた自分の書架などをビオトープとして考えるということを書いてると書いてあった。
それでふと、自宅のクローゼット(というのは一種の換喩で、持っている衣服の全体)も確かにビオトープ的であるかもしれないと思った。新しい服を買って加えれば、すでにあった服との組み合わせが生まれて活性化?するし、逆に多すぎて着れていないものなどを処分することで見通し?がよくなり循環が良くなる、みたいなこともある。(特にこの「減らす」ことも肯定的質に転換する=淀んだところを除去することで環境が向上するみたいなところがビオトープ的だと思う。)
それでさらに思ったのは、何がしかの「環境」や「システム」を考えるのにビオトープ的なイメージを持つことは、結構有益でこれまで欠けていた見方なんじゃないかということだ。ビオトープは静的で線形なシステムではもちろんないし、「ネットワーク」とも少し違う。一見、エコロジーの概念と似ているようで、地球そのものや森林を一つの生態系のまとまりとみなすのと違って、ビオトープはあくまで部分的で半人工的であり、重要?なのはビオトープはあくまで自然(の生き物)の通り道のようなものであって、それだけで孤立した系は維持できない(森林や河川という自然が近くにあることでビオトープは成立する)。
(こっちはエコロジーの考え方と共通するが)ビオトープは、ネットワークと違って、構成要素が機械的な点のようにみなされてなくて、有象無象だがあくまで具体的な生物(微生物、虫、植物、動物、菌類、……)であるのがいい。雑な直感だが、これはやっぱりドゥルーズ的な〈生〉の哲学に親近性があると思う。
●(もうすでになっているかもしれないが)特に表現において、AIがすごいことになってきたことによって、「(あえてそれでも)人間がわざわざ作る」ということの価値がやたらに上がらないといいな、と思う。これはペシミズムでもなんでもなくて、AIで「楽に」できることを人間がわざわざ作って「偉い!」とかなったら、もう全然いいものが出てこなくなるというようなことだ。
それは、写真以後の時代に、すごく緻密で「リアル」なデッサンが(その制作にかかった時間的コストも加味されて)「すごい」とされるのがくだらないとかそういうことだ。いくら写実的でも描画対象=画布に定着した木炭ではないわけで、最も素朴な意味で絵画のイリュージョンがそこにあるのは認められるが、別にそれは全然良い絵ではない。それがAIによって、小説とか映像とかあらゆる表現にもそういうのが「すごい」的な価値観が浸透しちゃうと嫌だな〜と思う。
だからといって「AIに書けないものを書こう」というのも安直すぎる。あるいは、「面白ければAIが作ってても人間が作ってても一緒だよ」というのもうさんくさい。その根底にある、同じ出力(小説なら小説)に対して、人間もAIもそれに到達しうるとか、著者名を隠されたらどっちが書いてても同じだ、というような考え方が偽の命題な気がする。ちょっと違うかもしれないが、バラエティ番組とかで、「落書き」にしか見えないとされる現代美術の作品と、それっぽくADとかが描いた絵を2択で当てさせるクイズみたいなくだらなさがある。