2026.06.10(WED)
●Tom Misch(UK)「Full Circle」(2026)
●テレビで路線バスの自動運転化を特集していた。バスは運転手の人手不足で廃線になるのところも増えていて、今は国が自動化の支援で補助金を出している、だから取材していた岐阜の路線バスの試験運用では市の負担は2割ほどで済んでいて、後の8割は国費で賄われている、と。お、補助金助かるやん、と私は思っていたら番組はスタジオに戻って、「いい試みだけど、これほど国費に『頼っている』と問題も残りますね」みたいなことを言っていて「え!」っとなった。続けて、「確かに自動化自体はいいとしても、みんなの税金で賄われているわけで、それで増税とかってとなると反対する人はいるかもしれないですね」みたいなことまでタレントが言っていた。
まず、最初の国費に「頼っている」という印象を誘導するような言い方で前提されているのが、バスの自動化を目指している市は国費という財源に「頼らず」に自立して「市場の原理」でやっていくべきである、というゴリゴリのネオリベラリズムの考えで、それが私はイヤだった。とはいえ、そうではなくて、地方自治として国に左右されずに自主裁量を持つ方が好ましい(簡単にいえばアメリカの州的な方向)という風に受け取れなくもないけど、まああの言い方はそうではなかった。
それで、二つ目のコメントの方が私の嫌いな論理とかがたくさん詰まっている。(しかし、こういうことってワイドショーレベルでは普通だ。)
(まず、そもそもこの話題ですぐに「増税」に結びつけるのは、端的に論理的に飛躍してると思うんだけど、まあそれはもういいや。)
私は「わたしたちの税金」「みんなの税金」「国民の税金」という表現が嫌いだ。誰だって嫌々税金を払っているはずなのに(だからこそ?)、納税者という共通項を経由・媒介して人々をネイションに結びつけることに違和感がある。ここ(ネイション)にとりあえずはいるだけで税金がかかるからしょうがなく払っているわけで、税金を払っていることによってネイションの帰属が意識・再確認されるのは違和感があるし、「国家」の思うツボだ。(いや、まあ払っているからにはちゃんと使え、というのはわかるけどさ。)(もちろん、帰属意識がなかったり、移民としてちゃんとした権利が与えられていない人も納税させられているということも考える必要がある。)(あと、私はあんまりちゃんと税金を払っていないので、説得力が弱い、いやむしろ強まる説。)
あと、単純にそのような言葉を使っているときに、その人は結局「みんなの税金」ではなく「わたしのお金」のことを言っているようにしか聞こえない。私は義憤というのがとてもイヤなのだ。義憤=正義や社会を媒介として、その人が正義や社会を「代表」するかのように憤ること。昔、電車に乗っていたときに、確かそれほど満員電車ではなかったと思うが、対面に座っていた女性は就活生っぽくて、手帳とかにボールペンで一生懸命書き込みをずっとしていた。たまに結構幅を取りながらノートパソコンをいじっている人とかはいるけど、その子は別にちっちゃくなって?やっていたし全然気にならなかったのだが、隣の年配の女性が「電車でボールペンを使うのはマナーとしてよくない」みたいなことを言って注意した。女の子は素直に謝って申し訳なさそうに書き物をやめた。それを見ていて私は「そんなマナー聞いたことねえよ!」とムカついた。ボールペンが服につきそうでイヤだったりしたのなら、(言いにくいのはわかるが)そうやって素直に伝えるべきだし、とにかくその人自身が不快だと思ったりしたことを「マナー」というあからさまな社会性を盾に言うのがとても卑怯だと思った。(つまり、年上なのも合わせて「権力の行使」なのだ。年上なのは関係ないと思うかもしれないが、逆に年下の人が年上の人に電車で同じことはどう考えても言いにくいから、そこには年齢による権力の勾配が生じている。そのことについては前に日記でも書いた。)今、ここに概念的にしか存在しない権力を持ち出して、場を制する・自分の要求を承認させる、それは「先生に言っちゃお」と同じだ。で、話を戻せば、「俺も払ってる税金をそんなんに使うな!」は(そこに何がしかの差別とかが含意されてなければ)当然いいと思うのだが、自分がイヤだと思ったことを冷静な顔をして「大事な国民の税金が使われている」とか言うのは卑怯だ。
保坂和志と山下澄人が二人でしゃべったトークイベントで、二人がしきりに「卑怯な生き方をしない」ということを強調していたが、私も全面的に同調?する。卑怯な生き方をしないと言うことは、飛躍するが〈動物〉の方に近づくことだと思う。
というか全体的に、他のワイドショーも含めてこんなに「雰囲気」でしゃべってていいのかと思う。あと、やっぱり政治の枠内で話すということの狭さも感じる。保坂和志が以前言っていた言い方を借りれば、政治の枠内で話す人は予想される幾つかの未来しかないかのように話す、例えば「みんな農業しちゃえばいいじゃん」みたいなことは彼らの発想から最初から除外されているし、それどころか「いやいや、そこまで前提なくしちゃうと議論できないでしょ」という感じで嘲笑さえされる、というような。
●国会というものの一番メインの目的?は一応は予算案の作成ということだと思うが、それで議員はもちろん、専門家や「国民」もそれについて考えたり意見を持ったりするわけだけど、いつも思うが、国家予算の何兆円?という規模のお金を明確に「体感」として?イメージできる人って本当にいるんだろうか。広さをいうときに、山手線の内側とか、東京ドーム一個分とか、ディズニーランド1個分とか言われる時と同じで、なんとなくはイメージできるけど、自分の身体との関係性と結びつけて「しっくり」きてるわけではないように、何兆円(そこまでいかなくてもそれぞれの予算の名目ごとの何億円でも)というお金もある程度「感覚」で扱う?しかないんじゃないか。ここで言いたいのは、だから予算の審議?は無意味だみたいなことではなくて、少なくとも議員の人たちも「市井」で予算について話す人もそういうことへの自覚はなく(極端にいえば、単なる「数字の操作」的で)、すべて把握しコントロール可能であるかのような前提で話されていているのではないかということだ。
話は少し逸れるが、年収が何千万円みたいな人も、自分の実労働とお金の結びつきは希薄にならざるを得ないだろうなと思う。だからこそ、例えばいくらものが良くても(これもつまらない考えだが)原価と人件費も含めた工賃を考慮しても高級な椅子が何十万円するのはどう考えても「高い」のだけど、自分の給料と「相対的に」金額の評価をするしかないわけで、それを「品質」に対しては「安い」と考えるようになる。
あるいは、それとは少し違うが、サラリーマン的な基本給というシステムでも、やっぱり働いてることともらえる給料の金額の関係性が薄くならざるを得ないと思う。これはでも、直ちに時給が至高!という話ではなくて、漁師なら今日の収穫?とか、八百屋さんの今日の売り上げとか、そういう少なくとも日ごとに変わるはずの生きたお金のダイナミズム?みたいなものを、「等質」な時間で均してしまうことからこういうことが起こるという話だ。だから、その上では月の基本給も時給制もその時間の単位が異なるだけだ。で、やっぱりそういう漁師とか(個人の)八百屋さんのような「商売」的な次元で止まっておけば、資本主義が暴走することもなかったし、私はそういう職業が結局単純にいいと思ってしまっている。
というか、ここで書いたことは多分マルクスがもっとちゃんと言ってるんだろうな。
●『それでも町は廻っている〈1〉』p54-55より。


この最後の「脈なし!脈がありません!!」の、そこに存在しない架空の?喩としての?脈のない腕が現れているというこの描写は小説で書くには(素朴には)少し難しいと思う。逆に言えば、めちゃくちゃ漫画的な表現。
●日記はタイトルの日付の次の日に大体は書いているが、6/10は一日体調がよくなかった。熱はないがずっと続く咳とよくわからない頭痛がきつくて一日家でフラフラ?してた。でも、やることはもうないと決めて、早めに歯磨きを済ませていつでも寝れる状態にしたら、結構楽になって、むしろ夜中までまとまった時間で読んでる本を読み進められた。