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日記 definitive

2026.09.23

2026.06.11(THU)

●HAPPY『Ancient Moods Mahollova Mind』(2024)

●昨日よりだいぶ体調はマシになった。咳が残っている。

●周司あきら・高井ゆと里『トランスジェンダー入門』(集英社新書、2023年)。読んでよかった。本当に私(たち)はトランスジェンダーについて知らないことばかりだったし、例えば教育においても十分に、というか全くといっていいほどトランスジェンダーについては触れられない。それで、唯一トランスジェンダーの人を見るのは、テレビでいわゆる「オネエ系」と呼ばれる人たちだ。彼女たちはテレビでの役回りで(ある種の「ショー」として商売にはなってしまっているので)ステレオタイプなキャラクターを演じさせられて、彼女たちにも個別の苦悩がある、またさらに、トランス男性に関しては全く不可視化されている。そして、テレビのイメージで「偏見」に基づいた印象をもったまま(もっとひどい場合には「イジって」いいのだという認識まであって)、実際にトランスジェンダーの人に会うと差別的なことを言ってしまったりする。

それで、例えば学校などでトランスジェンダーの人と「会う」ことがなかったりするのは、トランスジェンダーの人が「いない」からではなく、社会の中でトランスジェンダーを「存在」しないかのように扱われていて(つまり扱われてもいないわけだが。例えばさっき言ったように教育でセクシュアルマイノリティについて正当に教育されないとか。そもそも教師の側も、個人的に関心があったり当人であったりしなければ、特別セクシュアルマイノリティについてちゃんと学ぶ機会が与えられないで、そうなると生徒と同じな訳で、せいぜい「差別は良くない」という紋切り型をいうことしかできない。が、マイノリティに対する知識を伴わないと、その紋切り型は空虚であるどころか、有害なあり方として現ることすらある)、だからそんな状況でトランスジェンダーであることをカミングアウトできるわけがないから、可視化されず「知らない」から「いない」ことになっているだけに過ぎない。

もちろん、カミングアウトしなければいけないわけではないし、子どもの頃どころか成人後まで、自分がトランスジェンダーであることをどのタイミングで感じるかは全く人それぞれだ。で、これが大事かつ深刻なのだが、トランスジェンダーについて知る機会が与えられないという事態は、シス男性・シス女性(トランスジェンダーではない人々)というマジョリティ側だけの話ではなく、当然トランスジェンダー的な違和を感じている当人たちにも該当するということだ。

話はそのまま繋がるが、本書では始まりの方で、人や社会(特に親から)から個人に割り当てられる二つの「課題」があるとする。

一つ目は、「女の子として/男の子としてこれからずっと生きなさい」という課題。
二つ目は、「女の子は女の子らしく/男の子は男の子らしく生きなさい」という課題。(同書、35P)

この区別は言われてみれば当たり前のようで、しかしトランスジェンダーについて考える上で決定的に重要だ。二つ目の「として」については、シスの人々にも十分覚えがあることで、女の子はピンクが似合うとか、男の子は泣いてはいけない、とかそういうことだ。フェミニズムの文脈は(特に男性中心主義への反省として)女の子「らしさ」について、男性学は男の子「らしさ」について考えてきたわけだ。

一方でトランスジェンダーの人(定義を述べるのが遅くなったが本書では「出生時に割り当てられた性別と、ジェンダーアイデンティティが異なる人たち」(同書、14P)としている。)が直面しているのは一つ目の「として」の方だ。例えばトランス男性の人(出生時に女性と割り当てられているが、ジェンダーアイデンティティが男性にある人)は、子どもの時に、自分に「女性らしく」を求められていることに違和を覚えるというよりは、そもそも「女性として」生きることを課されていることに根本的な違和がある。(もちろん、トランスの人も男性「らしさ」女性「らしさ」について違和を同時に持つことはあるし、「として」と「らしさ」はそれを強制するマジョリティの側にその区別への意識がないがゆえに同時に与えられることがほとんどで、明確に区別することが難しい。が、だからといってこの区別が無効になるわけではないし、むしろだからこそこれらを区分けするのが必要である。)

それにくわえ、先に言ったようにトランスの人々は不可視化され、それについての知識も与えられない状況であるので、子どもの頃はもちろん成人でも、自分の性別に関する違和は二つ目の「らしさ」についての違和であると思いつづけ、本当は一つ目の「として」自体への違和であることに気づくのが遅れたりする。残念なことに、今のトランスへの差別と不理解が残る現状だと、早く気づけば気づくほど幸運であるというほどことは単純ではないのだが、いずれにせよ、子どもの頃によくわからないまま、自分の「本来」のジェンダーアイデンティティに沿った男性/女性「らしい」仕草や行動をした時に(当人にとっては「自然」で「普通」のことだ)、その都度周りから訝しがられたり矯正されたり、場合によってはからかわれ、いじめの被害にあったりすることは、とても辛いし不当なことだ。

トランスとしての「として」の違和に自覚する/しないに関わらず、学校という環境はトランスの人にとって、男性/女性の二分化を強く自明化されている。体育の授業、着替える場所の振り分け、トイレ、身体測定、さらに制度的でないところでも、休み時間に遊ぶグループというような場面でも現れる。シス女性の集まりの中でトランス女性が混じっていたらという場面を考えれば、トランス女性が他の男の子に揶揄されるという場面は容易に目にうかぶ。このように、いじめのような顕在的な事態に発展していなくても、トランスの人にとって学校という環境は日常的に、男性/女性「として」の違和にさらされ続ける環境にある。(戸籍や証明書に未だに性別を答える欄が残っているくらいに、性別で人をアイデンティファイすることが自明化された社会において、その性別に違和があるという状況は、トランスというあり方を知らない当人にとって、同時にトランスが不可視化され「存在」しないかのようにされている環境において、自分の「存在」に関わる重大な事態である。)

端的にトランスにとって学校は居心地の悪い場所になりやすい。次のような痛ましい現状があることを考え続けないといけない。

そうして、自分の状況を分かりやすく伝える手段を持たないLGBTの子ども、そしてLGBTかもしれない子どもは、学校でいじめられても大人に助けを求められない傾向にあります。自分がいじめられている事実を恥ずかしいと感じるだけでなく、自分の性的指向やアイデンティティを他者に伝えなければならないため、いっそう負担が大きくなってしまうからです。
(同書、90P。太字引用者)

先のストーンウォール調査(引用者注:イギリスにおけるオンライン調査)では、トランスの若者のうち、52%が「学校は楽しくない」と回答し、同じく52%が「学校は自分の居場所ではない」と感じていました。実際、3人に1人は自分自身の望む名前を使うことが許されず、58%は快適ではないトイレの使用を強制されています。後者は、トイレを我慢するためだけに水分を控えたり、排泄を我慢したりする子どもが多くいることを意味します。このように学校に居場所のない子どもたちは、インターネットを情報源にすることがありますが、オンライン上のホモフォビアやトランスフォビアも酷いものです。
(同書、90-91P)

●トランスにとって深刻なのが、自身の違和の原因である、出生時に割り当てられた性別「として」生きるのことを「強制」されるのは(表面的には「強制」に思われないほど、この社会では「自然」に行われるわけだが)、本来自分を守ってくれるはずの親によってである、ということだ。

●当然ながら、トランスの中にも同性愛者はいる。マジョリティにとっては「ややこしい」セクシュアリティだと思うかもしれないが、当人にとってそれが「自然」な固有の〈生〉を生きているのであり、ややこしくも何ともない。(とはいえ、社会がセクシュアルマイノリティへの理解が浅いから、受け入れたり自己認識したりするのに困難は伴ってしまう。)「ややこしい」というのは、ただマイノリティの側の思考の怠慢からくる印象に過ぎない。

●「みんながこの本を読むべきだ」というようなことは普段は思わないどころか啓蒙的で嫌いですらあるのだが、流石にこの本に書かれているレベルの知識は何らかの形で共有しないといけないのではないかと思う。本を読むという形でなくても、学校で映像の講習を受けるとか。でないと、トランスジェンダーについて子どもが知らないのはもちろん、親(の世代)がまず知らないのだから、トランスが不可視化される社会が再生産され続ける。

●前に読んだ『LGBTを読み解く』(ちくま新書)にもあったが、「多様性」という言葉が「流行った」だけで、それが根本の考えを変えないマジョリティにとって「何でもあり」とされるだけでは全く差別の改善にならない。ただ「寛大さ」や「思いやり」を標榜していても、無理解によって言葉や行動で無意識にマイノリティを傷つける(一度ではなく傷つけ続ける)。最低限の「知識」が絶対に必要だ。これは知性主義?では全くない。

Profile
滝鷹介 Taki Yosuke

1997年神奈川県生まれ。小説家。POLY LIFE STUDIOを主宰する。

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日記 definitive

(ほぼ)毎日更新。各回のサムネと1行目は、サブスクで新しいアルバムを聴くのは1日1枚までという自分ルールのもとでその日に選ばれたアルバム。

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