2026.06.15(MON)
●Holy Hive(US)『Holy Hive』(2021)
●去年の文フリで購入した冨田粥『やわらかな骨のためのインターフェイス・レッスン』を読み?かえしていた。はてなをつけたのは、この作品がA1?サイズの大きさの印刷物だからだ。このレベルの大きさの紙を開いて文字を読むのは、もう少し小さいペーパーや本を読んでいるのとは体感が全然違う。それらより「上演」という感覚が強い。私は言語表現を朗読したり、黙読したり、メロディーをつけて歌ったりそういう行為も全て「上演」だと思ってはいるが、ここではもっと映画や演劇を見るような普通の意味での「上演」にニュアンスは近い。
この作品のサイズは携帯しやすい割には明らかに読むのに場所を選ぶ。簡単に言えば電車やカフェでは読めない。これはただの社会的な要件だけでなく、いやむしろ社会的要件を含み込む形で、作品の側からの上演の環境の要請でもある。例えば、私はこれは一人で読むものだ、という印象になる。人前で読む環境を想定しにくい。だけど一方で、その誌面と文字の大きさとテクストごとの天地が異なるレイアウトから、複数人で作品を囲んで読むという読み方にも実は開かれているようにも思う。いずれにせよ、折りたたんだら簡単に持ち運べて、然るべき場所でテクストを文字通り「展開」して読むという上演性は、そのままの形で携帯して読むという従来の他のペーパーや書籍(実は電子書籍もその点では共通だ)とは異なる言語表現と身体との関係を生んでいるように思う。(少なくとも従来の書籍のあり方を相対化している。)
一方で、実はほとんど同じような大きさでも新聞を「読む」という表現には慣れている。が、これは今言ってきたことの反証ではなくて、大学教育でのポスター発表におけるポスターや新聞など、同じ大きい紙面でもその用途によってレイアウトが大きく異なることは事実としてあって、そのあたりについて詩のレイアウトの問題などと接続して考えるべきことがまだまだあるように思う。
●アド街を見ていたら、池袋でやっているステージを使ったイベントで、学校でストリートカルチャーとしてダンス、ラップ、グラフィックを習った学生たちが発表をしているのをやっていた。そこでカメラに向かってラップを披露する中学生のラップはとても「上手」だった。あるいは、他の番組でも川崎のどこかの公的施設の工事の際に、工事現場を取り囲む仕切りの壁に世界的に有名らしい日本人のグラフィックのアーティストに作品を描いてもらった、というのもあった。
ここには当然本当の「ストリート」はない。ストリート発のカルチャーを去勢し俗化したものが取り入れられているだけだ。まして、後者は明らかに、壁に落書きをされるのを防ぐために先に「作品」を描いておく、というジェントリフィケーション?的な分かりやすい例だ。
今のSupuremeはストリートブランドだが、現在の実際のストリートとはもはや関係がないだろう。(いや、価値が転倒して「憧れのブランド」とされているかもしれないが。)ハイブランドの一つとして「ジャンル」としてのストリートを取り入れているというだけだ。簡単に言えば、今ストリートと呼ばれているものの多くはストリートの貧困と関係を絶っている。
主にボード系のストリートカルチャーのオリンピックでの競技化もある意味広義のジェントリフィケーションで、スケボーをやることがオリンピックという「立派な目標」につながり、スポーツ的な「努力」に向かえば、ストリートから「ヤンチャ」な面を漂白できるし、興行がひとつ増えお金にもなる。(とはいえ、もちろん素朴にスポーツ好きのスケーターは素朴に喜んだと思うが。)
でも「民衆」としての人間はそんなに単純じゃない。この前スケートパークのある公園に行ったら、休憩で出てきた中高生の集団が木陰でタバコを吸っていた。ここに希望・強かさがある。
●松浦優『アセクシャル アロマンティック入門 性的惹かれや恋愛感情を持たない人たち』(集英社新書)を読んでいる。雑な整理としては、『LGBTを読み解く』『トランスジェンダー入門』から本書の順番で、ゲイ・レズビアン、トランスジェンダー、アセクシャル・アロマンティックとセクシュアルマイノリティについての本を読んでいるわけだが(ちなみに歴史としてアカデミックな領域で研究が始まっていく順番もこの順番である)、アセクシュアルとアロマンティックに(自分の勉強が)いたると、かなり知識の整理が大変になってくる。
アセクシュアルとアロマンティック(以下、同時に指すときはAro/Aceと書く。AroはAromanticの略、AceはAsexualの”Ase”の部分の読み(エイスに近い)とトランプなどのAceをかけた略称)はそれぞれ、「他者に性的/恋愛的に惹かれないという性的志向である」と本書では定義されている。この定義から分かるように、Aro/Aceは明らかに同じセクシュアルマイノリティとされるゲイやレズビアンと概念として並列する概念ではない。(いうまでもないが概念の「価値の大小」みたいな話ではなく、定義の指すメタレベル?が異なる。)Aro/Aceの人にとって問題となるのは、「普通は他者に恋愛/性的に惹かれるはずだ」という「対人性愛」の観念である。だから、Aro/Aceのことを考えるのは、二次性愛(生身の人間ではなく「二次元」の人物に惹かれを持つ)や対物性愛、動物性愛について考えることにもつながる。
それで最初に言おうと思ったのは、自分の認識の中でセクシュアルマイノリティの「分類」(乱暴だが一度こう言う)の仕方の「軸」が増え次元が増えて複雑になった、ということだった。ゲイとレズビアン、トランスジェンダーについての定義は、性的指向・出生時に割り当てられた性別・ジェンダーアイデンティティという項目であくまで二次元の表で描けるが、Aro/Aceも含めると表の次元が上がる。今、「分類」と言う言葉を使ったが、性的惹かれと恋愛的惹かれを分けて考えるしかたにはスプリット・アトラクション・モデルという名前がついているらしい。
分類が増えることはそのままアイデンティティとして、あるいは存在が可視化されるのでとても意義がある。一方で、(こういう言い方は「正義」の側についてるようで非常に嫌なのだが)セクシュアルマイノリティのことについて元々関心がある人にとってはその分類の複雑さの由来や重要性を推し量ることができるが、すでにセクシュアルマイノリティへの差別意識がある(そこまでいかなくても関心がない)人にとっては、なんだやたらと「複雑」で「面倒くさい」と思われかねないと思う。少なくとも概念が普及するには時間がかかるだろう。前にも書いた「つまり、何でもありってことね」と初めから理解を拒み結局差別が温存されるということになりやすいかもしれない。
ここからは少し私の感覚の話になるが、ここでの「何でもあり」は100人なら100通りの性愛のパターンがあるという認識ではなく、100をこえて文字どおり無限(♾️)に達していて(あるいは少数や分数のように非整数的と言ってもいい)、概念として無化してしまっている。つまり、一人一人の〈生〉に数が対応していない。強調するとセクシュアリティの分類化は重要な概念だと思うが、「何でもあり」の無限でもセクシュアリティの分類化という複雑な有限でもなく、全く別の質の形でセクシュアルマイノリティの概念や体験を理解できる枠組み・装置・体験はオルタナティブとしてあってもいいのかもしれない、と思う。
マルドロールちゃんの聞き齧りだが、フーリエの全婚愛という、(「普通」な単婚愛を最も貧しいものとした上で)性愛の形に異常な数の分類を与え、それによって性愛に対する概念の質的転換が(意図的ではなさそうだが)試みられているのは、このヒントになる気がする。
●とはいえ、Aro/Aceの概念の内容について言わずに分類のことばかり書くのは、これもAro/Aceの存在を、本書の言い方を借りれば「抹消」することになってしまうかもしれない。少なくとも言えるのは、差別の原因の多くはマジョリティの側のマイノリティに対する無理解とそれに由来する(例えばステレオタイプで人間を理解するような)思考の怠慢だと思う。「他者とは分かり合えない」という極端な境地を想定する前に、「究極的には分かり合えないかもしれないが、それでもその分からなさに(前向きに)立ち止まり続ける」ことが重要だと思う。「分からない」状況が不気味で耐えきれないと、ステレオタイプを当てはめて「自分とは違う人間」としてりかいしてしまい、偏見が温存される。
●セクシュアルマイノリティの「分類」が「複雑」だという前提で書いてしまったが、これらは群や環のような数学で意外と簡単に「表現」できるかもしれない。