2026.07.16(THU)
●Ancient Infinity Orchestra(UK)『It’s Always About Love』(2025)
●私は90年代のオルタナティブ・ロックに(芸人の永野経由で)影響を受けて、小説を書く人にも「アティチュード」が必要だろうと度々言っている。アティチュードとは直訳すると「態度」みたいな意味で、ロックの界隈だと平たく言えば「生き様」みたいなことを指すけど、ニュアンスはもっと広い。例えば、Nirvanaがテレビの出演で、ボーカル以外は録音したものを流す「当てフリ」を要求されたときに、ボーカルのカート・コバーンはわざとオクターブ下でふざけて歌うとか、初期のPearl JamがMVを作らなかったとか、そういう楽器の弾き方とか曲の特徴みたいな狭義で音楽の「外」でのパフォーマンス的?な側面がアティチュードの問題とされる。
特に90年代のオルタナの「ノリ」でいうと、ダサいことをしないとか、商業主義的にならないとかは割と共通してる美学?だと思う。
もちろんバンド(ミュージシャン)ごとにアティチュードはそれぞれ違う。でも、さらにいうと、「どんなアティチュードか」は大した違いじゃなくて、「アティチュードがあるかどうか」に大きい隔たりがあると思う。
もちろん、ここまで言ってきたことはアティチュードという言葉を知っているかどうかは関係なくて、(今は表現をやる人について考えているが)その人の選択や実践によって表象として?表れることを対象にしている。
アティチュードは自意識でもなければ「自己プロデュース」や「ブランディング」でもない。(もちろん、はっきり分けられないが。)保坂和志が昔発言していた「自己イメージ」は若干近いかもしれない。
それでやっと小説についていうと、小説を書いている人はアティチュードがない人が多いと思う。でも、それは(少なくとも「純文学」と呼ばれるジャンル?においては)新人賞の問題も大きいと思う。まず新人賞を送ってプロデビューするの権威主義的だとかもいくらでも言えるけど、どちらかといえば、小説の世界では新人賞を取らないと小説家として「存在しない」かのような雰囲気が強い。だから、単純な論法?で言うと、新人賞に贈るのは「小説家として」どうなんだ?と抗議されても、そもそも新人賞をとっていない我々は「小説家として」存在しない(=小説家ではない)のだから、「小説家として」という前提が無で、あれこれ言えるのは新人賞をとって小説家になってからだ、みたいな感じ。でも、いうまでもなく小説を書いていたらみんな小説家だ。(小説家という呼称がすでに「偉そう」なのはわかっている。しかし、素朴に小説を書く者として十分小説家だ。)
●さらに突っ込んで言うと、私は去年活動を始めた最初からかなり意識的に「小説家」を名乗っている。(正確には口では言うことはほぼなくて、文章で書く。)これについては、まずひとつは、正直に言えば「舐められないため」もある。主にSNSを情報の発信元や本人の代替的人格(アバター)とするのが普通になった今は、本当に本人のやっていることの「内容」と関係なく、フォロワー数でその人が「すごい」かどうかの判断がされてしまう。(私だって見る側だったらそう思ってしまう。)SNSが全世界で見れるとしても、そんなことと関係なく、すごいことをやっていたら必ずフォロワー数が増えたりするわけじゃ当然ない。だから、それは必要条件でも十分条件でもない。でも、私は自分のやっていることに、自信があるでも意味があるというのもちょっと違うけど、そんなようなこと、を感じているから、そんなところで謙遜しないで立場を表明する。(私は謙遜は卑屈だと思っているから嫌いなのだ。あくまで自分がするのは。)
とはいえそれは小説家という肩書の権威を借りてると言えばその通りだ。あと思いの外、他のジャンルでも画家とか音楽家(ミュージシャン)とか自分で名乗る人はそんなに多くないと思うけど、それでもわざわざ言うべきなのか? それは分からない。でも、こと小説においてはさっきの新人賞の問題も含めて、あえて「プロデビュー」していない私が「(私だって)小説家だ」と名乗ることは一種のパフォーマティブな行為になっている、とは思う。(ここで「パフォーマティブな行為になっている」と言うのは、パフォーマンスとして効果的であるとか何千何万人に影響を与えるとか量の問題ではなく質の問題だ。)
加えて、プロの小説家のXのプロフィールでも、「小説を書いています」などと書いて「小説家」とは書いてない人も多いと思うけど、それは「小説家」という言葉の持つ権威性に違和感(しっくりこなさ)を感じているからだとひとつには思う。しかし、「誰が見ても小説家である有名な小説家」が「小説家」と名乗らないのは、(自他ともに)言うまでもないからでもあるとはいえ、逆に言うと、現にある権威を隠蔽している感じもしなくはない。これはちゃんと責任を持つべきだとか、何かを引き受けるべきだみたいな話ではないし、じゃあ小説家と書いたほうがいいと単純には私も思わないのだけど、それはなんかちょっと思う。
●今、日本?に足りないのは風刺(画)ではないか、と思いつきで思った。SNS的に2極に分断する感じじゃなくて、的確に権力を「茶化す」ような。(笑いはほとんどの場合、軽蔑や同調を生むから使い方が難しいが、カウンターとしての笑いは、ある意味距離をとって冷静になることができると思う。)でも、ポリコレ以降の今は、人を「戯画化」するだけで「攻撃」にとられるだろうし、難しいのもわかる。逆にいえば、フランスの風刺画を載せてた新聞社が襲撃された事件があったように、「ただのふざけた絵」以上のものを強く感じる何か(事件のイスラム系の集団は少し違うが、特に権威的な立場にいる人をむかつかせる何か)があるのだろう。
●テレビで脱北した人が(ドキュメンタリーとかではなく、バラエティでサラッと)脱北したときのことを話していた。
私がテレビを見ていないだけかもしれないけど、脱北とかの話題って最近聞かなくなってた気がする。脱北が取り上げられる時は、日本のテレビでは、抑圧され閉鎖的な独裁的な国から命からがら脱出した、というノリで語られるし、大体の人にとっても脱北はそういうイメージだろう。でも、保坂和志が『読書実録』でスラムについて書いていたように、脱北については脱北した人の話でしか情報を得ることがない。つまり、北朝鮮が嫌で脱北したのだから、脱北した人の意見が日本をはじめとする「外」の考えと一致するのは当たり前だ。だから、北朝鮮にずっといる人の、「外」の言葉を持たない人たちの考えは分からない。(もちろん脱北した人は無事でよかったし、個別に北朝鮮を国として批判されて然るべき面があったとしても、そこは残る。)
●前にも書いた、私が好きな小田急線のキャラもころんが駅タグ総選挙と言う人気投票の結果が出て、「横浜北部・県央エリア」で1位だった。順当すぎる、当たり前だ、一番かわいいんだから、でも総合順位はなくて、地域ごとなんだね。
●昨日、PINFUくんとのスペースで話題を出したからか、夢に村上春樹が出てきた。大学の友達の飲み会で、2階の、確か座敷、の席で私たち二人だけで待っていて、意外に村上春樹は話しやすかった。携帯を充電するコンセントを探して、二人の背中の壁にあったコンセントを見つけて充電していた。