2026.07.21(TUE)
●Panchiko(UK)「D>E>A>T>H>M>E>T>A>L」(2000)
●「田舎」や地方に関して「都会」や都市との違いを感じたりすることは多いと思うけど(例えば、ステレオタイプだと人が温かい、とか)、私が地元に帰ってきて地元を一番感じるのはスーパーとか公共の空間で「ガチの喧嘩」が行われているのに遭遇するときだ。昔、地元のブックオフに行った時にふと思っていたが、今日最寄りの駅で多分夫婦の二人が喧嘩している声が聞こえて改めて思った。逆に言えば都会でガチ喧嘩している人は見たことがない。
でも、都会でガチ喧嘩をあんまり見ない(気がする)のは、お行儀がいいからとか洗練されてるからというより、去勢されているから、という感じがする。
『はんちか Vol.2』の座談会でも、しっかり喧嘩した方が「予後」がいいんじゃないかみたいな話をみんなでしたけど、実際のガチ喧嘩を見ると(声を聞いただけど)、怒って怒鳴ったりするのは明らかにかなり具体的なエネルギーを使ってる。よほど陰湿な嫌がらせとか皮肉の応酬とかじゃない限り、直接の喧嘩は(ある程度関係が築かれていれば)基本的に怒りは段々と減衰し、喧嘩前よりも関係が拗れるということになりにくいように思う。いやなんというかもっと単純に、相手に怒ることは疲れるので、いつか怒りが持続しなくなるということで、それが「心理的」な関係の拗れを外に表現することの強いメリットだと思う。
だけど、「心理的な」ことを表現せずに我慢してしまうと、精神的な悩みや不安、不満などは身体的なエネルギーと(基本的に)無関係に無限に心の中で反響・増幅して心を消耗させ続ける。いやこれだけだとしょぼい心理学の話で終わってしまうのだが、そうではなくてなんというか、心的な数えられる要因を外に出すか出さないかみたいなわかりやすい話では全然なくって、心的な不定形で単数でも複数でもない何かを怒ったり喧嘩することで現象化・事件化・外在化させ(大袈裟に言えば「世界」に対応づけ)ることによって何か違う質のものに転換するというか、そういうことが起こってるし、全体として怒ったり喧嘩することが良い面があるとすれば、そこに何かがあるからだと思う。(これはまた、「個人」のものを「共有」した方がいい、みたいなことともちょっと違う。)
●家にあって職場に持っていって食べていた、美味しさ長持ちパンとかいって賞味期限が1ヶ月以上あるパン怖すぎる。食べるけど。