2026.07.24(FRI)
●BADBADNOTGOOD(Canada)『Ⅳ』(2016)
●朗読会イベントでクレヨンを使うので、クレヨンを買っていた。買った後(イベントの前)も絵を描いてみて楽しいと思ってて、イベントが終わった今もたまに裏紙に絵を描いてみたりしている。なかなか楽しい。技術としてうまくはならずに、この感じで何かは広がっていく感じで描き続けたい。
●世間話で通じるような「安全な」(=すべらない、相手を困らせない)冗談とお笑い的なギャグ?ジョーク?––いや、単に「笑い」か––はちょっと違う。20歳ちょっとまで今よりお笑いファンだったのもあって、私は断然芸人的笑いを好むし、友だちとの会話はそっちのノリでばっかりしゃべってしまうが、当然、世間話的冗談も、初めて会った人とか職場とかでコミュニケーションとしてすごく大事だ。
プロのお笑い芸人からすると「大学生のノリ」という言葉は、「お笑いの表面だけ真似してる痛い素人」的な意味でとても否定的に響くきらいがあるけど、まあざっくりさっきの冗談とお笑いの二分法で言えば全然同種のものではあると思う。その上で、社会に出て会社に入って「去勢」されていないみたいな意味でも、単純に年齢としてエネルギーがある大学生くらいの歳の若者がお笑い的なノリで話やすいというのは自然だ。一方で、有吉がテレビに出ているのを観ていたら司会としての発言が「冗談」的なことばっかりで少し寂しくなった。
よく友だちとかに話すけど、私はワイドショーに出ると芸人は面白く無くなると思っている。お行儀も良くなるし、非常に「社会」の側に立つようになるし、常識的になるし、会話や進行が「上手く」なって「スムーズ」になる。それと重なることとして、中堅以降になって司会者をやるようになると、これもまた面白く無くなる。司会者は番組というフィクションの場の中でのことであるとしても権威が生じる。でも、番組というフィクションとみんなわかってるのにも関わらず(だって、誰も司会者という「職種」だとは思ってない)、本人も関係者も視聴者も何故か権威を付与してしまう=偉いと思うようになる。それはおいても、司会者は「歯車」だ。というとすごく悪く聞こえるかもしれないけど、実際としてそうだ。司会者として求められることがたくさんある。司会者も観ている人も暗黙裡にそれを把握している。小島信夫が「選考委員をやる人は、批評家でも元の小説家でもなく、選考委員になってしまう」というようなことを言ったように、司会者は司会者になる。それは番組中だけのはずだが、ずっとやっていればもちろん人格?の方も変形していく。(これは小説や日記、演技の問題と同じ。)(あとは理系の教授などについても思うところがあるが、それはいつか書く。
)
大前提として、お笑い芸人がネタをやる(作る・上演する)のと司会者をやるのは全然違うことだ。が、どちらも同じお笑い芸人の「仕事」として定着しているし、なぜかお笑い芸人の理想のキャリアとして、最初はライブに出てネタをやっってテレビで売れて最終的に司会の番組を「持つ」というのがずっと疑われず?王道とされている。年齢=芸歴が増えるということと、さっき言った司会者というのが権威的なイメージの親和性が高くて、芸歴が増える=偉くなったら偉い仕事である司会をやるのが妥当、みたいな感じだろう。あと、端的に司会がある面で「楽」ということもあるだろう。ネタを作ったりいっぱいライブに出るよりも、エネルギーも少なく給料もいい。
ここからは司会者の話より、テレビに出ることとライブでネタをすることの対比?になる。芸歴があるのに未だにライブに出てて偉いという言説はなくはないが、それは大抵爆笑問題のようにテレビに出ている上でライブ「も」でているという人に言われることで、大抵は「ライブに出る道を選んだ」という感じで挫折っぽく語られる。もちろん、東京03のようにライブをメインにしながら、芸人からも尊敬されている芸人もいるが、とはいえ東京03もそこそこテレビに出ている。
とにかく、私はお笑い芸人もネタをやる「表現をやる人」としてみているので、テレビ=バラエティ番組に出ることがキャリアの成功みたいな認識が今だに根強いのはかなり遅れているし、なんというか「損失」であると思う。(そして、その認識が特に強いのは実は「視聴者」側の我々であるのだが。テレビに出てない=存在しないと同じであるかのように考えがちである。)でも、最近はyoutubeの副収入もあるし、いわゆる事務所ライブではなく単独ライブをやる若手も多くなっている気もするので、状況は変わってきているかもしれない。つまり、テレビにこだわらない世代が増えてきている気もする。(くるまとか。)
●少し前に新しいバイトを探していたから、instaのおすすめがAIによってスタッフ募集(特に飲食)の投稿ばかりになっている。それの一つを見たら、こういう人を募集しているみたいな欄に「責任感を持って最後までやりきれる方」と書いてあった。怖すぎる。死ぬまで?
●『映像の世紀』でガンジーに影響を与えた指導者などが何人か特集されていた。フィリピンで確か民主化だか何かの抗議の運動に対して鎮圧のために軍が駆り出されて、民衆は非暴力を続けて黄色いバラを銃口に刺すなどのアクションを続けて、そのうち舞台単位で軍の隊員たちが民衆側に寝返るというシーンがあってよかった。色々な民衆運動の歴史で、軍や警察などの公権力の方が「寝返る」というシーンはなかなかないんじゃないか。
それと、テレビも軍政府のものになっていたのを、民衆運動の際にテレビ局を民衆側が乗っ取ることに成功して、政府側のトップが話しているプロパガンダ的映像が映っているのがカラフルな砂嵐で一瞬乱れてから、ニュース番組のスタジオみたいなところに映像が切り替わり、男性のキャスターのような人が「市民のためにチャンネル4(four)が戻ってきました」と言うシーンがドラマティックすぎてすごい。
●同じ番組で、アウンサン・スーチーが「5人以上の集会を禁じる」法律がある中、演説を行なっていると警察がやってきて大声で「今すぐ止めないと逮捕するぞ!」と脅迫すると、スーチーはそっちを向いて「言いたいことはそれだけですか」と言う。マイクを持つ手は震えている。というシーンも今思い出しているだけで涙が出そうになる。
●公権力はどうしてこれほど正確に間違い続けるのか。