2026.07.29(WED)
●トクマルシューゴ『Song Symbiosis』(2024)
●地震のことがニュースでやっていて、私は少なくとも一人暮らしを初めてテレビを持たず見なくなった2019年以降は、さらに言えばその前からテレビはほとんど見ていなかったからその少し前から、テレビ(特にニュース)によって社会と接続されているという感覚が極めて薄い。単純に言えば、テレビでニュースを見ないということでもあるけど、なんというか、大きい災害が起こったときなど毎日繰り返して災害の被害の様子などをテレビなどの映像で観ることで、自分の中に時間として災害があったことを占める部分が段々作られるというか、とにかくそういうことって普通だと思うのだが(例えば中学生の時の東日本大震災は自分にとってそうだった)、私はそのような形で災害などの大きな出来事と今は接続されておらず切断してしまっているという感覚がある。いや、これはルサンチマンなどではなく自分の中の大きな問題?で、簡単にいうと今回の前の熊本の地震や北陸の地震、他にも大きい土砂災害や台風の被害などがここ10年だけでもたくさんあったと思うのだが、私はそれらがいつ起きたか、どのような被害が出たか(数字ではなく、「有名」な被害の様子など)が正直言って全然分からない。いつ起きたかというのは、西暦をパッと言えるということではなく(それは普通の人でも数字として記憶してないだろう)、自分が何歳の時とか何をしていたときとかそういうこととそもそも全く結びついていない。(流石に北陸の地震が正月だったのくらいは覚えているが。)
一人暮らしをしていた2019から2025年までで考えると、私は家にテレビがなかったしSNSもやっていなかった。お金もないし新聞をとっていたわけでもない。結構真面目に、(全車両にあるわけではないから)たまに観るバイトに行く電車内の映像のニュースが私にとって唯一のニュースを知る媒体だった。(テレビやネットでニュースを日頃から見ている人にとっては、電車の映像のニュースなんて後追いのニュースにしか思えないだろうが。)そんなことだから、これは記憶を捏造してるかもしれないが、例えば大きい災害や大きな事件が起きたときに「知らせてくれる」メディアが身の回りに基本なかった。
でも、リアルタイムでなくても時間差で知ることには知るのだから、自分でネットで調べればいくらでも情報は知ることができる。でも、私は(意志をもってではなく)それをしてこなかった。問題と言ったのはそこで、私のこの態度は私自身が倫理としてどのように考えればいいのかが分からない。
例えば、東日本大震災はよくテレビで見ていて当然強烈に印象に残っているし、いや印象とかではなくて自分も関東にいて揺れを感じたりしていたし、行ってないのにこういうことを言うのは微妙だが、ボランティアに行ったりしたい意志はとてもある。(が、お金がなく、今食べるお金に困ってたりするので、リアルな移動費とかを考えると実行できていない。)が、私の中であまり接続できていないここ10年ほどの災害などに対しては、私が知らないことによって、そもそもボランティアに行こうとか思う契機が当然発生しない。被災者の方への祈り・手助け=ボランティア(や募金)のように話してしまうのは誤謬だが、しかし、個人の倫理として(道徳ではない、ここが重要だ、だから独りよがりであることもある)ボランティアに行きたいと思える状態の方が雑な言い方だが「良い」と思っている。でも、そのためには能動的に災害について知らなければならない(と少なくとも私は思っている)。
しかし、これは結局私の(特にテレビという)メディア嫌いに帰着してしまうのかもしれないが、被災した地域に映像を回してリアルタイムで中継を繋ぐような報道は私には耐えきれない。イオンモールの件で1日中規制区域?の周りで取材陣が待機して、監視するように映像を撮り続けていることは、ジャーナリズムという立て付けなのかもしれないが、人はただ「心配」して観ていると言えるのだろうか、青年漫画で満たされるような、怖いものやショッキングなことを注視したくなってしまう欲望なのではないか、私はそういう思いが触発されて気分が悪くそのようなニュースを見ていられない。同様に、被災した人たちの家屋などを写し、家が倒壊した人にインタビューを行い「安全な」スタジオから質問を執拗に行うようなことも見ているのが耐えられない。書いていて少し冷静になれたが、やはりこの辺りは特に民法の報道のあり方の問題であると思える。
とはいえやっぱりそれでも報道することに意義は必ずある。知った方がいいという命題を判断するのは難しいが、少なくとも、知らなくて良い、知らない方がいいという命題は肯定できないとは言えると思う。新聞など民法のテレビより倫理的なメディアでちゃんと情報を得ようと書きながら思った。しかし、これで最後にするが、私は前に殺人事件や交通事故などをニュースで報道することについて書いたが、地震についても、それでもやはり、一つ一つの個別の被災の状況(例えば施設の倒壊などについての被害の様子・詳細な経緯など)などまでについて、詳細に知ること・知ろうとすることにはやはり暴力的な何かを強く感じとってしまう。この全体が私と震災との距離のようなものだ。