2026.07.30(THU)
●Yialmelic Frequencies(US)『Zjumk』(2017)
●先週末はどちらにせよ予定があったが、誰かの家でビールを飲みながらダラダラ観るのもいいなと思うくらいには少し気になってたが、結局フジロックの中継を見なかった。マッシブ・アタックなどが話題になっているのも知っているが、他のアーティストも含めて、録画を観ようとも思わない。私は多分、音楽は好きだが、もう(いや最初から)フェスには「乗れない」人間だなと思った。(特に悲観的でもなく。)
●保坂和志を経由した小島信夫の言葉として「小説のことは小説家にしか分からない」という一部で有名な言葉がある。先に言うとこの言葉は私はすごくそうだと思う。一方で、この言葉を(もちろん人によって出会うタイミングが異なるとはいえ)「未だに」批判的な文脈で持ち出そうとするのをみると、それはこの言葉の内実自体というよりは、ネットで定期的に話題になる?「村上春樹の小説はキモい」や「令和人文主義」という言葉のように「論争をするための命題・道具」になったんだなあと感じる。
しかし、逆に言えば、この言葉に批評家系の人たちを無性に腹出される本質的な?何かが宿っているのは多分確実なんだと思う。それで、保坂和志本人はといえば、言い分として、いや本当は批判する人たちを保坂は相手にしてないから言い分ではなく説明なのだが、当時(今も)批評家側の人たちは小説家が自閉している・開き直りだと強烈に批判されたが、この言葉はもっと小説家に対して批評家の存在が大きかった時代に、小説家に希望や自由を与える救いの言葉なんだと。そしてそれは批評家の存在感が弱くなってきたとは言え変わらず有効なのだと。
今の時代に、素朴に小説は文芸評論と両輪の輪?になることでより良い小説ができる、と素朴に考える批評家は少ないだろうが(それは批評家の「無力」などでは全然なくて、単純に役割?・立ち位置の変化として)、とはいえ無闇に小説家以外(にとって自身)が突き放されるような感覚があったり、挑発的に感じたり、確かに自閉的にもとらえられると思う人がいるのも、まあ分からなくはない。それに対してまず言えるのは、これは小説だけを特権としているんじゃなくて、表現として批評に対しても同様に「批評のことは批評家にしか分からない」と言ってもいいということでもある。が、それだけでは「自閉的」に見えるという批判に応えてないし、それぞれのジャンルが「自閉的」であるのはジャンル同士のネットワーク?としてあまり好ましくないとも一見感じられる。
まあ単純に言えば、この言葉の真意?は全然「自閉的」な意味ではないのだが、そのことについては保坂がイベントのトークなどでよく話しているし、面倒くさいのでここでは繰り返さない。が、私はそれと違う考えで、さらに簡単に答えれる「解法」をずっと持っている。
それは「みんな試しに小説を書いてみればいいじゃん」である。どういうことか。「小説のことは小説家にしか分からない」という言葉で、特に批判する人が想定しているのは小説家=プロの小説家というイメージである。そこが保坂の意図と大きくギャップがあるのがすれ違い?批判のもとであると思う。保坂の中の小説家感は「小説を書いていればみんな小説家である(デビューなど関係ない)」「小説のことを考えていることも小説を書いているのと一緒である」だ。だから、プロの小説家としてのプライドみたいな話では全然ない。あらゆる小説を書いている人に「開かれている」。それに加えて、私個人の「気になったことは自分でやってみたい」という性格から導き出されるのは、「小説を試しにちょこっと書いてみれば、小説のことがわかるようになるし、その時点でもうあなたは「小説家」なんだよ」ということだ。まあちょっと不正確にいい変えてしまうと、「小説のことは小説家にしか分からない」という言葉は「小説を試しにでも書いてみれば小説のことがわかる」と考えようよと。
「小説のことは小説家にしか分からない」が話題になると、ついつい批判的な人に対して「正面から」反論してしまいがちだけど、それはお互いアプローチの時点でよくなくて、この解法なら結構ちゃんと話になると思う。(とはいえ、この言葉を、小説を書いたら、実践として技術がわかるとか、創作の苦労がわかる、みたいに矮小化してしまうとそれは全然違う。)
●AIの自動生成のイラストが誰でも作れるようになってそこそこ経つけど、AIのイラストは、例えばジブリ風とか、↓こういう画風の絵とか、↓↓こういうトンマナの絵とか、もうよく見かけるもののパターンが飽和して食傷気味だ。イラスト屋が流行った時と一緒で、無個性で汎用的なようで当然個性があるから長くたくさん見てると結局飽きる。


とはいえ、こうやって少ないパターンに収束してるのは、AIの仕様の限界では全然なくて、AIに画像を作ってもらうプロンプトの内容が凡庸だからだろう。AIで画像(や音楽)を素人でも簡単に作れるようになったことでわかったことは、AIで画像(や音楽)を作成して何かしらのサムネなどに使ってそれでよしとする人は、そもそも画像(や音楽)にこだわりがない人だいうことだ。(もちろん、AIによって今までなかった画像を生成しようとする人もいるのはわかる。)それを思ったのは、みのミュージックでみのが話していた、落合陽一が番組でまだ登場したてのAI作曲のツールを使って番組のジングルを作ろうといって作った曲に対して落合陽一は「いい」と言ったのだが、みの的には全然良くなかった、という話を聞いてからだ。そういう人にとっては、サムネや記事の最初にそれっぽい画像が「あったほうがいい」と思うから、今はAIで簡単に作れるからそれで助かる訳で、そして特に独創的なものを作るという目的ではないから、そのプロンプトとしてなんとなくポピュラーな「ジブリ風で」とかいうから同じようなイラストが氾濫している。
だから、確かにAIで画像生成するのは驚くべきテクノロジーだし、もっといろんな可能性は本当はあるのだが、目下今のところは、看板や広告が安い料金で作れる業者におまかせで頼むとおんなじ感じで凡庸になるのが、今はそれがたまたまAIの画像だ、という感じ。(後の時代に見れば、ああこの時期こういうのばっかだったよねとなる。)