2026.08.05(WED)
●Goldie(UK)『Timeless』(1995)
●クラシックをやるNHKの番組をなんとなく見てて、ヴァイオリニストの人がクラシックは譜面は同一だけど各時代の演奏家は常にそれを更新して云々みたいなことを確か言ってて、その時に「伝承」していく繋いでいくみたいな語彙が使われていて、やっぱりクラシックはもう伝統芸能になったんだなと確認したのとともに、今の音楽につながる前史として(少なくとも日本と西洋では)クラシックを習わされるというのはやっぱり不自然?だなと思った。
「今の音楽」とここで言うのはとりあえず「世界の大衆音楽・ポップミュージック」ということだけど、20世紀にその領域で最も影響力のある/あったのはもちろんアメリカとイギリスで、というか世界規模の大衆音楽というのを実質創り上げていったのがその2国だったからそれは当たり前だ。良くも悪くもそれは事実だからまあしょうがない。そして、それは現代につながる音楽史を考えることが実質(イギリスが多大に影響を与えてるとはいえ)アメリカの音楽史を考えるのと一緒になってしまうということがある。で、それも問題はあるが、一応仕方ないとする。となったときに、すごく雑にいえば、アメリカの大衆音楽は、入植者の祖国の音楽からできた音楽と、奴隷とされたアフリカ系の人たちが作り出した音楽(要はカントリーとブルース)から始まっていると言える。(一応言っておくと、ブルースは直接アフリカ系の民俗音楽なのではない。アフリカ系の人たちは言語もバラバラなままアメリカに連れてこられたから、共通言語がそもそもなかったりする。そんな中で英語を使わされた、異なる文化的ルーツを持ったものたちのコミュニティとしての奴隷労働の現場の中で、労働歌(だけではないが)としてブルースが生まれた。)だとすれば、そこの音楽史とクラシックはある程度切断がある訳で、現代の大衆音楽につながる歴史としてクラシックが登場するのは変だ。つまり、(アメリカを中心とした)大衆音楽の方は実際は二つの民俗音楽をかなりの程度ルーツとしている。
いや、正確に言おう。今までの説明は少しミスリードで、(この辺は知識不足だが)実際はベニー・グッドマン的なクラシックを経由したビッグバンド的なジャズ(これもアフリカンアメリカンがルーツな訳だが)とかからポップスに大きく影響を与えているから、クラシックから切断しているとは厳密にはいえない。一方で、じゃあ義務教育レベルでの音楽の授業(座学)はどうなっているかと言うと、ほとんど全域がクラシックを習わされて、最後におまけ程度にいきなりビートルズ以降のポップスから米津玄師までが紹介される、みたいな状況はずっと変わってない。つまり、最後にビートルズや米津玄師を載せるくらいで大衆音楽史をやりたいなら、逆にアメリカの音楽史への踏み込みがなさすぎるし、そうではなくて音楽理論的なことの教育をしたいんだと言うのであれば、クラシックがメジャーな音楽ではないのに(もちろん数の問題ではないが)いまだに中高生が学ぶこととして「ソナタ形式」とかを学ばされるのは少なくとも「実用的」ではないし、どちらにせよ中途半端だということだ。
クラシックは謎の形骸化した権威が付与され続けている、と言うことではある。
●最初に言おうと思ったのは少し違うことだった。今の大衆音楽史にいたる歴史はごく大雑把にいえば、
各地方の民俗音楽+クラシック→20世紀アメリカの大衆音楽→(ここでさらに80年代のワールド・ミュージックの「流行」や、それ以降の情報や人の移動のグローバル化によってあらゆる地域のポップ・ミュージックが逆にアメリカ的なポップスを少し脱中心化する)→今のポップ・ミュージックの現状につながる
という認識なのだが、その上で、今のポップ・ミュージックにいたる歴史をこの矢印を辿って遡行していく時に、最初の「各地方の民俗音楽+クラシック」のうち「各地方の民俗音楽」だけが取捨されてしまっているということだ。で、それは西洋中心主義だからクラシックが権威化されているから、と言えば、それはそうで、ありふれた西洋中心主義批判なのだが、私が思ったのは、クラシックというのがそもそも「流行りすぎた民俗音楽のひとつ」あるいは「覇権を獲得した民俗音楽」(普通の定義上、クラシックこそが民俗音楽と対義語的な概念なのだが)なのではないか、ということだった。
●10年ぶりくらいの親戚と急に会って(と言っても家は本当にすぐ近くなのでその可能性はずっとあったのだが)ほんの一言二言だけ久々に会話した。私のいつもの習慣?性格として、終わった後に言ったことのニュアンスが伝わったか、言い方がどうだったかと頭の中で反芻してしまうのだが、その時に、ラカンが短時間セッションを重視していたことの意図が少しわかった気になった。短時間の会話はある程度の長さを持った会話に比べて「出来事性」が明らかに強い。また、出来事性ということでいうと?、山下澄人がゼミをやるときに、参加者同士で飲み会とかで仲良くなっていくより、「よく分からないやつ」の状態の方が面白い、と言っていたこともつながっていると思った。
●明らかにピカピカした(電気を操る)チュウ(ねずみ)という語源から「ピカチュウ」という名前が「名付けられた」はずの生物が、偶然にも?「ピカチュウ」という鳴き声で鳴くのはどう考えてもおかしい。しかも、ポケモンの世界がこちらの世界と全然違う言語体系で生きているのならまだわかるが、ポケモンの世界でも全然「ピカピカ」という語はこちらの世界と同じように使われているはずだから尚更おかしい。(「チュウ」に関しては、ポケモンの世界で「チュウ」と鳴く普通のネズミはいるのか?とかの話になってくるが、例えばフシギバナなら「不思議」も「花」も確実にポケモンの世界にも概念・実体として明らかに存在する。)
でも、これはやっぱりこちらの世界の言語観?で考えすぎている。ポケモンの世界では、ポケモンたちの存在が神話的な意味の源泉だと考えたらどうか。「不思議」という概念も「花」というカテゴリないし実体も、フシギバナが存在しなくても生まれたかもしれない、あるいはそもそも、ポケモンと言語のどちらが先に誕生したのかは分からないが、「不思議」も「花」という語もフシギバナが発見/誕生する前から存在していて、「バナバーナ」と鳴く生物に対して確かに鳴き声と背中に「花」が生えている特徴の一致から「フシギバナ」と名付けたかもしれない。しかし、今や?「不思議」も「花」も、フシギバナがその語の原初や由来ではないとしても、「フシギバナ」という実体に概念として根拠づけられ(続け)ている。これは保坂和志が言っていたが(多分ハイデガーの参照だが)、空という主語が「青い」という述語によって規定されているのではなく、空という主語が「青い」という述語にその根拠を供給し続ける源泉なのだ、みたいな話と一致する。いや、でもこれも実は結局フシギバナが「たまたま『バナ』と鳴く」蓋然性を説明できてないのだが、だからこそポケモンの世界は、その意味と言語を繋ぐ神話的な存在としてポケモンがいるのではないかと。フシギバナは然るべくして「バナ」と鳴く。(ポケモンの世界の中の「世界」にとってポケモンが特別・根源的だというより、言語と意味にとってポケモンが特別な存在なのではないか、という。)
でも、そもそもは原作のゲームではもっと鳴き声らしい鳴き声だったわけで、アニメ化する際にああいう名前を表す鳴き声にされたんですけどね。