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日記 definitive

2026.09.23

2026.08.06(THU)

●Takuya Nakamura『Pleasure Seekers』(2026)

●そういえば、週の初めに『存在論的、郵便的』を読み終わっていた。個別の内容はまだじっくり考えたいが、ひとまず終わり方が良かった。『存在論的』では、デリダがなぜ70年代から『葉書』のようなオーソドックスな論文風ではない文体をとったのか、みたいなことをデリダを読みつつラカンやハイデガーも参照して最後はフロイトにもつながりながら考える。でも、最後の最後で、最初に提起した問いに対して、デリダを読み込むほどその問いに対する探究として、これまでの議論は構造からしてアプローチとして限界があった、ということを言う。

《私はここまで一貫して、デリダが用いる古名をその文脈から引き抜き、それら諸隠喩=概念の配置を形式的に整理すると言う作業を行なってきた。つまり私は彼の「幽霊」なり「郵便」なり「呼びかけ」なりという言葉の具体的な指示対象を基本的に引用符に入れ(本文では傍点)、何よりもまず、それらの述語がある思考システム(形而上学システム/否定神学システム/郵便システム)のなかでどのような機能を果たしているのか、その機能の問題だけに議論を集中してきた。その戦略は私には当初、隠喩の戯れに満ちた後期のデリダのテクストを知的に「読む」ための唯一のやり方と思われたからである。しかしこの読解法はいま確認したとおり、デリダの古名を全て古名としてではなく、一種の固有名とみなすことを要請する。したがって本性の枠組みのなかで動いているかぎり、私はデリダの「郵便」については語れるが、その隠喩が引き起こす連想のネットワークに対してはつねに否定的に振る舞うほかない。そしてこれは、デリダ派の欲望そのものだ。本質的にきわめて「デリダ派」的な、したがって保守的な欲望に支えられていたのである。デリダ派の問題を扱うには、私はデリダにあまりに深く転移している。というよりも正確には、そのような問いを立てること、「転移」について考えることそのものが、私がいかにデリダ派的であるかを雄弁に証拠立てている。第一章での表現を再応用(ラプリケ)するのならば、私はいまや「he war」を前にしたジョイス学者のように振る舞っている。おそらくは、私はそろそろ散種の、すなわちtranche-fertの禁止を解除するべきなのだろう。それゆえ突然ながら、この仕事はもう打ち切られねばならない。》
(東浩紀『存在論的、郵便的』(新潮社、1998年、335P。))

あとがきで東浩紀は《自己言及的な罠》によって《デリダ論の躓き》が起こったと説明しているように本人的には満足のいく結論ではないのかもしれないが、私はある考えを進めていって、その考え自身によってその考えが否定されるみたいなのは、思考の内容ではなくて思考の進め方として、フロイトの思考の方法に近くて、勇気をもらえる。フロイトも「これから仮説として論究していくことは、最終的に誤りが発覚するかもしれないが、だからと言ってそれをやらないという理由にはならない」(だいぶ記憶は曖昧)みたいなことを言っていて、まさにそんな感じ。

あと、文中では東浩紀がほとんど「私」という意味で「私たち」と使い続けているのが、彼の文体だなあ、とも読んでいて思った。

●PINFUくんと広さんという方のスペースを聞いていた。PINFUくんがある話の例えで、学校で「水筒の中身はお茶かお水」ですよ、みたいな話があって、それは確かにそうだったけど、よく考えると水筒の中身がジュースだと規範を逸脱しているとみなされる、学校の介入・管理のやり方が謎すぎる。管理がいきすぎているみたいな話というより、ジュース=甘え・反規律、とみなされているのが、今の感覚で不合理すぎて笑える。

●5秒前仮説と打とうとしたら、5秒前仮設と出てきて、5秒前仮設は流石にやばいと思った。

Profile
滝鷹介 Taki Yosuke

1997年神奈川県生まれ。小説家。POLY LIFE STUDIOを主宰する。

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(ほぼ)毎日更新。各回のサムネと1行目は、サブスクで新しいアルバムを聴くのは1日1枚までという自分ルールのもとでその日に選ばれたアルバム。

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